落火流水
月下毒酌
見くびってはいない。とはいえ、過大評価もしちゃいない。
発火能力を持たないのは大きなハンデだ。それでも、たとえ能力者であれど、並みの人間は火事場の馬鹿力を火事場以外で自在には扱えない。それに加えて、本人が自負する通りのしごき抜いた肉体もある。引いて、足して、足して。算術がからっきしの頭を捻り、まあ滅多なことでは死にゃしないだろう、と勘定を出した。
その勘定は、国中が敵だらけの火事場になったと分かってもなお信じられるものだった。雲行きは怪しく第八の進む先も不透明だが、それでもあの男が易々と殺される事態にはならないだろうと高を括っていた。
一転、弾き出した答えに不安を覚えたのは、詰所に戻り紺炉と今後について算段をつけている最中だった。浅草まで巻き込むまいという第八側の意思を汲むのなら、すぐに動くのは得策ではない。そこから話は始まったはずだったが、
「とにかく、何が起こってんのか探ってみねェことには……おい紺炉? どうした」
途中、ふいに紺炉が上の空になり、目線をフラフラと何もない奥の壁の方へとさ迷わせた。ただでさえ普段から悪い顔色が、ますます青ざめている。
「紅……どうも、そう悠長に構えちゃいられねェようだ」
「あァ?」
「今、ちらっと覗き見えた。……これが火華が言ってたあどらりんく、ってやつか……?」
「おいおい、なんだってんだ。見えたって、いったい何がだ?」
鼻の傷を押さえるように手の平を顔に当て、窪んだ目元の奥では両目が不自然な速さで瞬きを繰り返していた。その目が、動揺を露わにしながらもこちらに向き直った。
「……皇国の連中、桜備に蟲を入れる気だ」
最も傷の深かったアーサーが一命を取り留めたのを確認してから、意識のある隊員に聞いた情報をまとめ、秘密裏に消防局長官に連絡を取って現状を報告。結局、府中から浅草へと退避して早々に行った紅丸と紺炉への一旦の状況説明を終えた後も、桜備は慌ただしく動き回り、再び顔を合わせる頃には夜もすっかり深くなっていた。
身体的にも精神的にも疲労は激しく、他の隊員に対しては十分休息をとるよう指示したものの、「どうせ寝れやしないだろ」と言って一升瓶と共に現れた紅丸の指摘は当たっていて、誘いを断る理由はなかった。
「――新青島……中華半島での調査の時に、焔ビト化した野良犬がいたって聞いて、俺は安心したんです。動物も鎮魂されるんだなって」
縁側に並んで座る二人の間には、酒瓶と小さな行灯があった。境界線のように置かれた灯には、紅丸が灯した橙色の炎が燃えている。
「そいつァ、俺に対する嫌味か」
「は?」
「気がついた時には野良犬で、周りからもそう呼ばれてた。こんな世の中じゃ珍しくはねェだろ、親の顔も知らない子どもなんてのは」
「……シンラが前に言ってましたよ、新門大隊長がショウくん…弟のことを心配してくれてたって」
「おかしいか? 肉親のいないやつがその大切さを説くのは」
「いや、そんなつもりは。むしろ……――」
自分が過去にもらったものを別の誰かにあげるのはたやすい。もらえなかったものを与えられるのは、その人が本当に優しいからだ。
そう思ったのは嘘じゃない。それでも口にするのを躊躇い、結局、濁したまま口を噤んだ。
相手はそれを気にする様子もなく、手酌で酒を継ぎ足した後の一升瓶を、ドン、と音を立てて縁側に置き直した。
酒瓶に書かれた「最愛」の文字が月明りを反射して光る。橋の上で愛を問い質していた男の舌を潤す酒の名前がこれかと思うと、まるで冗談だ。
「そういえば……時々、声が聞こえるんです」
「声?」
「ちゃんと聞き取れたことはないけど、何か、こっちに訴えてるような……」
首を捻り記憶を探りのたどたどしい説明を受け、紅丸がこともなげに、ああ、と相槌を打つ。
「幽霊の声だろうよ。この辺にいくらでもいるだろ。俺のだけじゃなくて、先代も、そのまた先代の殺した奴らの分も含めてな」
この辺と言いながら杯を持っていない方の手を、肩から頭上辺りの空間でぷらぷらと振る。
「それはまた、随分重たそうだ……」
その呟きを聞いた紅丸は、細めていた目を開き、チラリ、と下から伺うような視線を投げる。
「やらねぇよ? ぜんぶ俺のだからな」
ニヤリ、としたり顔の笑みを浮かべられ、考えを見透かされた恥ずかしさに思わず口が曲がる。肩代わりができるとは思わないが、共に背負うことはできないものかという浅薄な考えはたしかに頭を過った。
「まあ、そもそもこっちが助けられてばっかりですしね」
「……生憎だが、今回のは助けにいったつもりはねェんだよ。紺炉が蟲を入れられそうになってるってのを察知して、それで…もしも鬼になってたとしても、俺だったら……――」
中途半端に開いたまま固まった口はそれ以上先を継がず、誤魔化すように杯で塞がれた。
口にするのを躊躇うのは、別の言葉を探しているからだ。核心を避けて円を描く星の軌道で、断崖絶壁を前に踏み込みかけては止める逡巡。
もう何も言うべきでは無いと気づき、無言のまま迷いを含んだ視線だけを交わす。
波が引いては満ちるように、近づいては離れを繰り返し、距離感を図っている。そして今、それぞれの波が同じ瞬間に満ちた。波と波がぶつかり新たな波を生みながらも、温度の違う水がいっしょくたに混ざり合っていく。
激しさと静けさが同居した独特な高揚感に突き動かされ、満ち切らない月が雲に隠れたのを切欠に、二本の腕がそれぞれ相手に向かって伸びていった。
心臓を直接わし掴むように胸の筋肉を揉みしだく右手も、中に自分のものが埋まっているのをたしかめるように腹を撫でる手も、とにかく体をできる限り触れ合わせていなければ気が済まないというように動いていた。それにくわえて口は、汗ばんだ背中を吐息で湿らせながら、死んでくれるな、離れてくれるなと、譫言のように情けなさすら滲む言葉を紡いでいる。
突いて犯すというよりは、凹凸のピッタリと嵌まる組木を組むようにただただひとつになることを目的とした挿入で、内に入ってからしばらくが経つが、じわりじわりとしか動かない。
「ッふ……ん…」
体の内側の一番柔らかい部分を、まるで子どもの頭を撫でるかのように一切の激しさもなく力も込めずに擦られ、懇願にも近い真っ直ぐさで愛を囁かれ、桜備の体は物理的な刺激以上の動揺を感じていた。
三十も過ぎれば、愛されている実感やありのままの優しさのような、そんなものに深い喜びを覚えてしまう。こんな柔な情動、肉欲有り余る年頃の若造には理解できないだろう。
だからこそ、余計に恥ずかしい。どうか気づいてくれるなと、枕の布を噛んで胸から溢れそうになる吐息を堰き止め、腹の筋肉に力を入れて体の震えを抑える。自然と涙が滲んでくるのを眉間に渾身の力を入れて堪えていると、突如、瞼の裏に火花が散った。ちかちかと瞬く閃光と共に抗えない刺激の怒涛が押し寄せ、全身の力をつま先から徐々に奪いそのまま過ぎ去っていくのを感じる。それでも、薄っすらと開いた目を向けた自分の股間に射精した様子はなかった。間違いなく達したのに、理屈は知っていても初めての経験に脳が混乱する。
「おい、今……」
気づいてくれるな、という願いも虚しく、おそるおそる顔を上げれば、天井を背景にこちらを見下ろす男の顔は明らかに戸惑っていた。そりゃそうだ。体の内側を通してほとんど一体になるかのように繋がっているというのに、何も伝わらないわけがない。
バレた、と分かるやいなや、羞恥心で顔が一気に熱くなるのを自覚した。いっそ激しく弄ばれ分かりやすい刺激に溺れさせられた方が、よほど気が楽だ。
「なんで泣いてんだ。分かんねェヤツだな」
そう言って伸ばされた手が、親指の根元で目の端に滲んでいた涙を拭う。頬を擦る硬い皮膚の感触さえも刺激に感じ、腰が疼いてしまう。
どうせ分からないだろう。
好きだとバレる瞬間の恐怖など。心底好きだと、相手にだけでなく、自分自身にもバレてしまう時のどうしようもない動揺など。
達してしまった。溢れないように慎重に継ぎ足していたつもりの想いが、こんなにも呆気なく満たされ零れてしまった。
「っぐ…!」
少なくとも今掴まえているのは自分の方なのだと示すために、せめてもの抵抗として急所を咥えこんでいる部分に力を込める。締め付ける痛みに漏れた呻き声が頭上から落ちてきて、少し溜飲が下がる。そのまあ、はあ、と胸の息をすべて吐き切ってから、ゆっくりと息を吸う。瞼に力込めて目を細め、相手を見据えた。
「俺は……どうせ死ぬならあんたに燃やされたい」
助けに行ったのではなく殺しに行ったつもりだったのだと、さっき本人が言い淀んだ言葉を代わりに継いでやり、挑発も込めてぶつける。すると、撫でるように動くだけだった体内の昂ぶりが、ようやく遠慮を捨て去ろうという気配を帯び始めた。さっきは戸惑いがちに涙を拭っていた手が、腰骨を無遠慮に荒々しく掴む。掴まれた途端、ジン、と音がした気がして、同時に鋭い痛みが走った。火傷した。と脳が判断して腰が引けそうになるが、掴んだ手がそれを許さなかった。そしてすぐに、どこが痛んだのかも分からなくなっていく。
「知ら、ねェぞ……!壊れて、も…はっ…」
「ぁ、がっ……ッ、あ、ァあ……ッあ…!」
内臓を突き上げられるような、吐き気とも似た快感が腹を巡る。とろ火から強火へと、躊躇いなくシフトできる火加減の操作に翻弄される。肉同士がぶつかる音と荒くなった呼吸音が刻む拍が、次第に速まっていく。
「ッつ……!」
体内で果てる男の性器の震えを感じながら、こみ上げる衝動がまた涙になって目から出た。今度の涙の理由は、恥ずかしさではなく、一種の絶望感だった。
今まで生きてきて、はじめての感覚だ。
好いた人間に好かれていると知った今、はじめて、明確に死を恐れている。
何よりも命を大切に、正しく死を恐れろ。そう掲げながらも、心のどこかで、自らの命も明るい未来のためにくべる薪になる日が来るのだと予感していた。
救われた先の世界に、自分自身も存在しなくては意味がないのだ。
そんな当たり前の感情や願い、他人からの疑いようのない愛以外でどうやって知れようか。