落火流水
落ちる花あれば上がる花あり
桜備が紅丸の正確な年齢を知ったのは、火華が大災害と人体発火についての報告書を持って浅草を訪れ、アイリスの突然の「お似合いですよ」の発言に場が騒然となった後だった。
「――若の年? 今年で22だよ。それがどうした?」
「に、22?! 22??!!」
「あ、あぁ、そうだけど……なにそんなに驚いてんだィ?」
「や、別に…思ってたより若いなぁと……思いまして……」
正確な年齢を知って驚き動揺するのと同時に、脳の引き出しの奥の方から古い記憶が転がりだしてきた。そうか、今が22歳なら、あのときは――
あのヒバチ・シンモン、もとい新門火鉢が死んだ。
当時、そのニュースは世間よりも一足速く一般消防官内部を駆け回った。
一般消防官達にとって、特殊消防隊やそこで活動する能力持ちの特殊消防官達の存在は特別だ。羨望とそれにまさる嫉妬や僻みの的となり、尊敬もされる一方で失敗や不祥事を期待されてもいる。
皇国の、というよりは灰島と天照による支配に対して抵抗を続けている浅草の火消しに関しては、特殊消防官ではないものの何かと話題になる存在だ。
「じゃあ、浅草の火事はどうなる? エリア的には第五が受け持ちか?」
「いやぁ無理だろ。皇国の消防官は浅草に足を踏み入れただけで袋叩きだっていうぞ」
「跡継ぎならいるらしい。能力持ちの子供を養子にしたって聞いたことがある。まだ十歳かそこららしいが、第二と第三どっちの能力もあるって…」
「両方? そんなの、もう化物じゃねェか。じゃあまー、浅草の自治も続行か。この際とり潰されちまえばこっちも色々と楽なのに、あんな原国主義者共――」
「おいっ、やめとけ。誰が聞いてるか分からないぞ」
背の高いロッカーを挟んだ反対側で二人の隊員の噂話を聞いていた桜備は、自分が今閉めたロッカーの扉の音が会話に影響を与えたのだと気がついた。別に、差別的な発言に憤ったわけではなくただ偶然だったが、止めてもらうのに越したことはない。
「浅草か……」
桜備が所属している第三特殊消防隊配下の消防署からは地理的に遠く、一般消防士として浅草に出向くことも当然なかった。桜備自身は原国に祖先を持ち名前や見た目も原国の様式や特徴が強い方だが、それ自体はそう珍しくもない。信仰心も薄いため原告主義に悪い印象は持っていないものの、そもそも、他の多くの皇国の住民と同じように縁が薄いのだ。
聖陽教の教えに従おうが従うまいが、日々人体発火の恐怖に晒されているのは同じ。そもそも、原国主義者側の抵抗以上に不当な弾圧を皇国が行っているのも事実だ。それにくわえ、さっきの隊員達のような差別意識も根強い。
今後は、さっき「化物」と呼ばれていた跡継ぎが焔ビトを葬るのだろうか。原国式の鎮魂についてはほとんど知らないが、人殺しの責に耐えられる年頃なのだろうか。それとも、皇国の一部の特殊消防官のような焔ビトを人とは思わないようなやり方なのか――
「そういえば浅草の……先代は、どんな方だったんですか?」
桜備の質問を受けた紺炉は、少し考えてから、手にした竹ボウキに両手を預けて背を逸らし晴天を仰いだ。
「先代か……そうだな、言うなりゃ空みたいな人だったな。お天道様も月も、この空がなきゃ輝けねぇ。とはいえ、ことさら派手な主張もしない。心根っから優しくて、懐が広くて、不器用にこの町を愛してて……俺よりも紅のやつに似てるよ。親子だからな」
浅草に潜伏中の桜備と火縄が、仮の指令室として使わせてもらっている部屋で今後の方針について話し合っている最中だった。一段落ついたところで、火縄が、そういえば、と話を切り出した。
「桜備大隊長は、ご家族と連絡を取らなくて大丈夫ですか。ヴァルカンが傍受されない通信機を作ったので、環には実家の方に連絡をさせました。仔細は伏せて無事を伝えるだけに留めるようには伝えています」
「そうか。ありがとう」
「ご両親か……あとたしかご兄弟もいらっしゃいましたよね」
「ああ。ただ、前々から不測の事態が起こった時のことは伝えてあるから。まあ、みんな濡れ衣だってことは分かってくれてると思う。家族のところにも軍は来るだろうし、連絡は控えておくよ」
「そうですか……では、彼女などは」
「え」
「彼氏と聞いたほうがよかったですか? そういうの偏見ないので、どちらでも構いませんよ」
「ちょちょ、待った。なんか仕返しされてる俺?」
「そういうわけでは……ただ、本当に逆賊になったことで、あの結成当時に大隊長が言っていた言葉の意味を実感できたので」
「意味?」
「今の俺に家族はいませんが、あなたを含め第八の隊員のことを家族同様に大切に感じています。たとえば、あなた個人の無事を願うことが、自分自身や世界を守りたいという力につながっているのを実感します」
「あ~、俺かぁ」
「それで、結局大隊長に恋人はいないということですか」
いやにしつこいな、と内心でややうんざりしながらも、察してもらえるような男を相手にしていないことは分かっている。
「…………いないよ」
「そうですか。じゃあ問題はないですね」
桜備の答えを受け、火縄が淡々と判断を下す。分かりやすい会話の終わりをあえて引き留めたのは、桜備の方だった。
「なあ、中隊長」
「はい」
「人との関係が恋人って言えるようになるのって、どんなタイミングだと思う?」
「よりにもよって俺に聞きますか」
「はは……だよな」
「……あくまで一般論ですが、口約束が成立した時点ではないでしょうか」
火縄が火縄なりに考えて出した答えを聞いた桜備は、もう一度、だよなぁ、とため息と共に同意の言葉を漏らすと、首を逸らして天を仰いだそのまま、窓の外に広がる浅草の町並みへと目を向けた。
皇国内で柱の出現が続く中、潜伏している第八はもちろん、あくまでも傍観を決め込んでいる第七も、鬼の撃退に関わることはなかった。それでも、柱の影響で焔ビトの数が増えているのは浅草も例外ではなく、町のそこかしこで半鐘の音がけたたましく響く日々が続いていた。
桜備をはじめ第八の面々はと言えば、逆賊として浅草に自粛潜伏しながらも、人格が激変したシンラの突飛な行動に勘の鋭いアーサーや柔軟性の高いヴァルカンを除く、ほとんどが翻弄されている。そのストレスにくわえ、事態が目まぐるしく動いているのに身動きの取れないフラストレーションも溜まっていた。そしてそれは、桜備だけではないようだった。
「おい、出掛けるぞ」
「え、どこにですか」
「行きゃ分かる」
ある日の夜更け、寝付けず鍛錬していた桜備の前にふいに現れた紅丸は、もっともな質問を問答無用とばかりに一蹴した。それでも、一応は緊急事態の最中ということもあり、桜備も食い下がる。
「でも、俺が不用意に外に出るのはさすがに……」
「皇国軍でも白装束でも、俺が蹴散らせば文句ねェだろ」
そう言って紅丸が手にしていた纏の柄をダンッと地面に打ち付けると、垂れ下がっていた纏の紐は一挙に炎を帯び、天に向かって燃え上がった。
第八特殊消防教会の正面広場に降り立った桜備は、いちど周囲に目を配ってから、そびえる建物を見上げた。もはやここに自分たちが戻ることは無いと見切りをつけられたのか、意外にも皇国軍の目はなさそうだった。
「これがてめェの城か」
「まぁ……元、ですけど。あの、俺、言いましたっけ? 教会に行きたいって」
「言われたこたねェよ。俺が見たいと思っただけだ」
この大事の中にあっても、城は常と変わらず佇んでいる。否、通常であれば夜間も点けているはずの非常灯が消えているし、騒がしく走り回る隊員達もいないので、桜備の記憶と比べれば暗く静まり返って見えるのは間違いない。玄関に向かって歩きながらも、どこか自分の知らない別の場所に来ているように感じられた。
「――誰なんだ、こいつは?」
「ああ、そのポスターは俺の好きなバスケ選手の……あっ、そうか。そもそも浅草にバスケは普及してないのか」
「バスケ?」
「スポーツですよ。ルールは簡単だし、多分すぐにできる……まあ、世界が平和になったらの話ですけど」
必要な資材などは持ち出しているし、残していた情報の類は軍がすべて持ち去っている。特に用もなく本当にただ見物して回る最後に向かったのが、桜備の自室だった。
「……」
皇国の文化自体に親しみが無い紅丸が顎に手を当てながら物珍しそうに見て回る様子を、腕を組んで無言で眺める。
世の中が大変な状況下にあって不謹慎な感想だが、彼女を自分の部屋に連れてきた時のような、妙な緊張感があった。記憶にある限りだと、高校生以来になる胸の据わりが悪いソワついた感覚に、桜備は意味もなくトレーニング器具につもっている埃をはたいた。監視の目は無さそうとはいえ部屋の電気を点けるのはさすがに躊躇われた薄暗い部屋で、窓から入る月明かりに埃がチラチラと光る。
「――なんだ、感傷にでも浸ってんのか」
いつの間にかベッドに腰かけぼんやりとしている桜備に、紅丸が離れた位置から声を掛ける。
「あ、いや……思い返すと、シンラにとって第八に入ってからの日々は散々だったよなと思って。ネザーで死にかけて、母親が鬼だって分かって、そんで、遂には人格まで崩壊して…」
「今のあいつも、あれはあれで面白いけどな」
「いやぁ~……そりゃ、あの状態を受け入れるしかないってなったら受け入れますけどね。リヒトも火華大隊長もがんばって調べてくれてるし、なによりシンラのことはアーサーが一番理解してる。いずれはなんとかなるでしょう」
「えらい他人任せだな」
「任せてるんじゃなくて、頼ってるんですよ。能がない分、人に頼るのは得意分野なんで」
「……そういや、さっき浅草を出る時、お前のとこの中隊長がえらい形相してたぞ」
「火縄? 元々怖がられる顔ですけど……そういや、前に浅草の外で他の大隊長とコンタクトを取りに行く時も、ギリギリまで危ないから付いてくるって言ってたな。慎重なんですよ彼は」
「慎重ねェ……」
その説明に首を傾げつつベッドまで歩み寄ってきた紅丸が、間に三十センチほどの隙間を空け、桜備の隣に腰を下ろした。
「なにか、話があってこんなところまで来たんじゃないんですか」
「別に、そんなんじゃねェよ……そういや、最近、やたらと昔の夢を見る」
「昔って? いつですか?」
「昔は昔だ。すっかり忘れたと思ってた記憶を引きずり出されて、蹴られる痛みも糞うるせえ怒鳴り声も、やたらと生々しくてな。寝覚めが悪くて仕方ねェ」
見た夢の内容を思い出しているのか、苦い表情のまま首を逸らし、天井を見上げる。
「……それは、理由になりますかね」
「あァ?」
急に声をひそめた桜備の呟きを聞き取れなかった紅丸が、逸らしていた首を戻し、眉をひそめた顔をそちらに向ける。そのタイミングで、桜備は紅丸の顔面を目指して左手を素早く持ち上げた。それに反応して、紅丸の片肌脱ぎしていた右手が反射的に体の前に出る。
「っと……!」
すかさず、その腕を掴んで前のめりに体重をかける。強引に倒し倒すと、二人分の体重を受けとめたベッドが大きく揺れた。桜備は、掴んでいる腕をそのままベッドに押しつけ、相手の体の動きを先んじてふうじこめた。とはいえ紅丸の方にも抵抗する様子はなく、押し倒された瞬間はわずかに動揺していた赤い目もすぐに落ち着きを取り戻し、上から覗き込む桜備の不満気な顔を、憮然とした表情で見つめ返していた。
「……理由だァ?」
「避けてる……いや、違うか。無かったことになってるのか」
「……」
「ひとりで勝手に盛り上がってるとは、あんま思いたくないんだけど。そこんとこ、どうなのかと思って」
口調は砕ける一方で、声色は冷めている。一切逸らさずに見つめる眼差しと相まって醸される真剣さに、二人の間の空気も冷たく張り詰めていた。
「紅丸も、俺のこと好きってことでいいんだよな?」
質問を受けた紅丸は片方の眉を曲げると緊張感を吹き飛ばすように、ハッ、と声に出して笑い、ベッドシーツで髪を擦りながら首を捻った。
「なんだ。今は神さんとドンパチ中でそれどこじゃねェって事態じゃねェのかよ?」
「それどころじゃないからこそでしょ。正直、この先ゆっくり話ができるような時間があるかどうか……それこそ、無事でいられるかも分からないし」
語気が荒くなるのにつられて腕を押さえつける手にも力が入り、ギシ、とベッドがきしむ。見慣れたベッドの上に乗せると、紅丸の体躯もいつもより小さく感じられた。
高校生の時には、さすがにここまで大胆なことはしていない。そもそも、当時の彼女とは結局キスのひとつもせずに終わったはずだ。喧嘩別れではなかったし、思い返しても自分にはもったいないくらい良い娘だった。彼女も彼女の家族も、今頃無事でいてくれればいいが――
「っぐ!」
押し倒して迫っておきながら無関係な人間へと思考が飛ばしていると、隙だらけの腹へと下から膝が打ち込まれた。体勢を崩し肘が折れると、すかさず腕を捻りあげられ、次の瞬間にはあっさりと上下の位置が逆転していた。
「あのなァ……」
細められた瞼の隙間から覗く薄っすらと赤い光を帯びた目が、桜備を静かに見下ろす。なにか言いたげに口を開いたものの、チッ、と舌打ちをして桜備の上から退いた紅丸は、そのままベッドから飛び降り窓際に歩み寄った。
「帰るぞ。ひとっ風呂あびたくなった」
紅丸の言葉に応えたのは桜備よりも纏の方が早かった。窓のすぐ外に赤々とした炎が飛んできて、部屋の中も一気に明るくなる。
膝蹴りで痛む腹をさすりながら後を追った桜備が、あの、と呼び掛けると、開け放った窓のさんに足をかけた体勢で紅丸が振り返った。
「……第八の方針は、命を大事に、です。市民や、自分にとって大切な人の命はもちろん、その大切な人にとって大切な自分の命も」
「どうせ俺は死なねェよ。別に死にたいと思ったこともねェが、俺を殺せるヤツがこの世にでもアドラにでもいるってんなら会わせてもらいてェくらいだ」
「それで言ったら、俺は無能力者だし、けっこう簡単に死ぬんだけどな」
やや苛立ちのこもった反論の声に、紅丸は一、二秒無言で赤い目を瞬かせた後、おもむろに手を伸ばし、桜備の額に指先を軽くはじき当てた。
「……だからかわいいんじゃねェか」
デコピンされた額を片手で押さえた桜備は、誤魔化された不満を表情に浮かべながらも、それ以上何も言わず、窓から纏に飛び乗った紅丸が差し出している手を掴む。
いつの日かまた戻ってくるだろう、その時は他の隊員達も一緒に。根拠もない妙な確信を胸に、馴染んだ部屋と大切に育ててきた城を後にした。
紺炉が先客の存在に気がついたのは、髪と体を洗い終えて洗い場の椅子から立ち上がり、浴槽を振り返った時だった。
「うお、若。いたんですか。声かけてくれりゃいいのに、人が悪ィ」
「知らねェよ。そっちが気づかなかっただけだ。しかし、えらい遅い時間に来るな」
「ああ、あのデケェ柱の影響か、灰病の傷も濃くなっちまって……他の奴らを怖がらせちゃいけねェと思って時間ずらしてんですよ」
そう言いながら長い髪を高い位置で結わえた後に、肩にかけていた手拭いを外す。本人の言い分のとおり、灰病の範囲も色も前より目に見えて酷くなっている。それを確認した紅丸は、下唇を軽く突き出し、眉をひそめた。
「誰も気にやしねェだろ……移るもんでもあるめェし」
「いいんだよ。俺の勝手なんだから。しかし……良い湯だ。詰所の風呂は第七のやつらに合わせて温度下げちまったから……やっぱこれくらい熱ィのが丁度いいな」
紅丸のすぐ横までジャブジャブと歩いて来てからゆっくりと体を沈めると、恍惚とした表情を浮かべ、しみじみと言った。
「紅こそ、こんな時間にどうした。また夜遊びか」
「ガキじゃねェんだ。別にいいだろ」
「まあ、いざって時に居てくれりゃ構わないけどよ……こんな時だからこそ、ブレないようにだけしてもらわねェとな」
紺炉の言葉を受けて、紅丸がムスっと不機嫌そうに顔を歪め、黙り込む。そして、そのままじわじわと湯の中に沈んでいった。頭の先まで完全にお湯の中へと沈んだ後、紺炉は湯の表面に浮かんでくる空気の泡を怪訝そうに眺めていた。
十数秒後、沈む時よりも素早い動きで浮かび上がってきた紅丸は、ぷはあ、と詰めていた息を吐くと、顔の水を両手の平でぬぐい、そのまま濡れた髪を後ろへ撫でつけた。それから、紺炉ではなく水面をじっと見つめたまま言った。
「……俺は、俺より強いやつはぶっ飛ばしてェし、弱いやつは守ってやりてェと思ってきた。それだけで良いと思ってたんだが……強くも弱くもねェやつ、いや、強ェし弱ェやつの扱いが分からねェ」
分からねェ、と悔しそうに言いながらバシャバシャと水面を指で弾いて乱す子どもじみた仕草に、紺炉は跳んでくる飛沫を手で防ぎながら苦笑する。それから、その手をお椀のように丸め、透明な湯をそっと掬った。
「お前さんは昔からずっと強ェからピンとこないかも知れねェが、人には弱い時も強い時もあんだよ。どうすりゃいいか分かんねェってんなら、ただ傍にいて、必要なら手でも握ってやりゃいい。そうすりゃ、水が流れるみたいに自然といいところに行き着くもんだ」
宙に持ち上げた手の平を、斜めに傾ける。大きな手の平に溜まったお湯が、流れ落ち浴槽の中に再び混ざる。
「しかし……顔赤いぞ、紅。のぼせてんじゃねェか?」
「まだたいして入っちゃいねェよ」
「昔、何度も我慢比べして、そのたんびぶっ倒れてたの忘れたか? さっさと出てさっさと寝ろ」
「おい、一体いつの話をしてんだ」
「俺にとっちゃ、昨日みたいなもんだよ。……夜は冷えるから、髪もちゃんと乾かして、腹しまって寝ろよ」
重ねての子ども扱いにぐちぐちと文句を言いながらも大人しく出て行ったのは、本人にものぼせそうな自覚があったからだろう。脱衣所に向かう紅丸の傷ひとつない背を見送った紺炉は、ようやく静かになった浴槽でほおと一息つくと、両手で湯をすくい、そこに映った自分の腑抜けた笑顔と顔を見合わせ、参ったな、と苦笑いを零した。
地下の秘密基地。部屋の主であるジョーカーはソファに長い体を横たわらせ気怠そうにタバコをふかしている。桜備は少し離れた位置にあるデスクの椅子に腰かけ、ビーカーで出てきたコーヒーを啜っている。
「しかし、浅草の破壊王が、他人様に興味があるどころか手近な男に首ったけとは。参ったね」
「関係ないだろ、お前には」
「おいおい、つれないこと言うなよな。せっかくこんなとこまで連れて来たって言うのに。ここなら誰にも聞かれることもないぜ……リヒトがなにか仕掛けてなきゃな」
「そもそも、なんで知ってるんだよ。まさか、本人が言ったわけじゃないよな」
「地下の道はボロボロとは言え皇国中に張り巡らされてる。もちろん、浅草の下も第八の下も例外じゃねぇさ」
「それって、もしかして……」
桜備が珍しく心底嫌そうに顔を歪めるのを見て、ジョーカーが楽し気に唇を歪める。
「冗談だ、冗談。意外に思うかも知れないが、覗き趣味は持ってねェんだ。ま、ただの勘と……経験とでも言っておくよ。で、どうなんだ。よろしくやってる割には冴えねェ顔だな」
「どうもこうも……そんな場合じゃないって言われたらそれまでだけど、なんだかな」
「釣った魚にエサはやらず、ってか?」
ジョーカーの遠回しな指摘に、桜備は押し黙る。無言を肯定ととったジョーカーは、ククク、と喉を鳴らして笑ってから、真顔に戻り、そういえば、と指を立てて天井を示した。
「前に中央庁にカチコミした時だったっけか。神様って呼ばれんのはえらい嫌がってたぜ……多分他にいるんだろ。あいつにとっての神様みたいなもんが」
言葉の終わりに小さな呻き声をあげ、眼帯に隠れた左目を手の甲で押さえる。柱の出現で能力に変化が見える中、アドラと直接つながる部分には特に強く影響が出ていた。
「神様に後ろめたいのかも知れねぇな。だって、恋ってのは、信仰に似てるだろ。……そういや桜備、あんたは太陽神への信仰心はあったのか?」
再びの沈黙に、分かりやすい、とジョーカーが笑う。ハッハッハと地下に響いた笑い声は次第に小さくなり、そのまま男は片目を閉じた。
「悪いが、俺はひと眠りさせてもらうぜ……春が来たら起こしてくれよ」
ゴロ、と土のついたじゃが芋がひとつ、紙袋から転がり落ちた。
目の前でそれを見ていたタマキは、あ、と声を挙げたものの、両手はその芋が入っていた紙袋を抱えてふさがっているため、ただただ見ていることしかできなかった。
ああ、ごめん、助けられない――
浅草の舗装されていない道へと真っ直ぐに落下していた芋は、地面にぶつかる寸前で誰かの手に受け止められた。
「ほらよ」
しゃがんでいた体をゆっくりと起こした紅丸が、掴んだ芋を野菜の詰まった袋の一番上に戻す。
「あっ……ありがとうございます」
驚きに目を見開いて、それでも咄嗟に礼が口を出た。敬礼も合掌もできない状態で、タマキは二つ結びにした頭を可能な限り深く下げた。
「しかし、えらい量だな。押し付けられたか?」
持ってやるとも言わずに無言で袋を取り上げようとした紅丸の行動を必死で制したタマキは、買い出しの袋を抱え直し、手ぶらの紅丸と並んで詰所までの道を歩いていた。
「いえ、私なんて、買い出しくらいしかできることないんで……」
「なんだ。この前一皮向けたと思ったら、また被り直しちまってるな。修行の効果はなかったか?」
「そんなことは……でも、結局誰かに守られて流されてばっかりだし……」
眉毛を八の字に曲げ、悩まし気な顔で俯く。紙袋に半分隠れたタマキの顔を横目で見おろした紅丸は、顎に手を当て、ふむ、と口を曲げた。
「鍛えるのも悪くはないが、使いどころってもんもある。俺だって、偶然浅草の火消しに拾われなきゃ益体も無いただの暴れん坊だ。流されてる内にお前ェさんの力の使いどころもどっかで見つかるだろうよ」
「……私は、消防官じゃいられなくなりそうだったところを桜備大隊長に拾ってもらった身です。だから、第八が大変な今こそ役に立ちたいんですけど……」
「守りたいもんが決まってるならいい方だ。なまじなんでも守れちまうと、かえって迷うぞ。何を守って何を守らないか」
「ゔっ…わぁ……贅沢な悩み」
「闇雲に強くなりゃ良いってもんじゃねェってことだ……ケツの青いガキには早い話か」
「弱いのはともかく、子ども扱いはやめてください。これでも、同じ一消防官なので」
ムキになって反論するタマキに、へぇ、と小さいながらも愉快そうな笑みを向けた紅丸は、丁度通りがかった十字路で詰所とは逆の、賭場がある方向へと道を曲がり去っていった。
浅草の秘密基地に据えた小さなテレビに映る隅田川上空の中継を、第八の他の隊員たちと固唾を飲んで見守る。紅丸が自ら討伐に出るとなった時は驚いたが、状況を理解すればさもありなん。他の誰として手が出せない、というよりも、出したところで相手にはならないだろう。
紅丸と対峙した鬼の姿を見て、否、喝を飛ばす声を聞いた時に桜備はあることに気がつき、他の面々とはまったく違う感情を覚えていた。
『――』
画面越しにでも破格さが伝わる迫力で朗々と響くその声が、初めて聞くはずなのに初めてと思えない。
広々とした青空に突き立った柱を背にし、縦横無尽に飛び回っての呵呵大笑。
「そうか、あの声は――」
華々しく柱の鬼を討伐したという意味では一安心だが、同時に一抹の寂しさも覚えていた。
先代に打ち勝った今、名実ともに浅草の頭になった男に、もはや陰りや不安などないだろう。繊細な弱さを帯びた青々しい存在がはっきりと大人へと近づく瞬間を目撃し、親心にも似た誇らしさと切なさを覚えている。このまま手の届かない高さへと飛んでいってしまい置き去られるとして、
「……それも悪くないか」
と、独り言のつもりで呟いた桜備の声を聞き拾ったのは、その時ちょうど隣にいたアーサーだった。
「諦めか、らしくないな」
「え? いや、諦めというよりは、前向きな受け入れというか……」
事情を知っているはずもないアーサーの切り込みに困惑しながらも、虚をつかれて油断し、深く考える前に返事をしてしまう。するとアーサーは、すぐに金髪を軽くゆらしながら頭を横に振った。
「諦めは、すべからく絶望につながる道だ。前向きな諦めなんてない。紅丸が言っていたぞ、大隊長は火事場の馬鹿力の申し子だと。それはつまり、諦めを知らない人間ということだろう」
なにかを分かっているのか分かっていないのか分からないアーサーの断定的な物言いに、桜備は最初呆気にとられていたが、すぐに破顔し、大きな笑い声をあげながら騎士王の肩を抱いた。突然の行動に驚いたアーサーがもがくのを無視し、片腕の中に納まる小さな体を抱きしめる。
「とりあえず、世界救ってから考えるかぁ」
「おい、シンラ――」
「あ! 新門大隊長! なんですか」
「お前……」
「はい?」
「あ~……」
「え?」
「……やっぱなんでもねェ。さっさといけ」
突然呼び止められたと思いきやさっさと突っぱねられたシンラは、困惑した様子で紅丸を伺っていた。それでも、紅丸がしっしっと手を振って追い払うような動作をすると、なにか言いたげな表情を浮かべながらもその場を去った。
「なんすか若、今のは」
チグハグと噛み合わないふたりの様子を脇で見ていた紺炉が、怪訝そうに紅丸に問う。
「別に……ちっと、礼をしようかと思ったが、余計だからやめただけだ」
「礼?」
「……さっきのアレで、初めて自分が死ぬって感覚を知った」
何が起こったのか完全に把握はできていないが、二人の周りの状況は炎に呑まれる直前とそう変わっていない。酒を飲み騒ぎ暴れる浅草の町民たちからすれば、多少人が増えようが死人が生き返ろうがたいした問題ではないようで、陽気に歌い野次を飛ばす声が幾分騒がしくなっている程度だった。
「俺は、この町とこの町に住む連中を、キタねぇのもキレイなんも丸ごと引き受けてるつもりだ。こいつらが生きてる間ずっと、死ぬ間際まで笑えるようにしてやりてェと心底思ってる。それは愛だろ。ただ、さぁ死ぬぞ、って瞬間に思い出せんのはひとりだけだ。ソイツも今頃笑ってりゃいいなと思えるから、こっちも笑って死ねる。それが………まあ、実際のところは先に死んでたみたいだが」
「そういうの、なんで本人に言わねェんですか」
「……粋じゃねェからだよ」
「そうですかね。逆じゃねェかなぁ………あぁ、そうだ。折角生き返ったんだし、先代に聞いてみるか?」
そう言って紺炉が振り返った先には、大勢の町衆に囲まれて立つ先代頭領の姿があった。再会に涙する者も多くいる中、さっきから誰かが上げ続けている花火を背に、大口を開いて笑っている。笑みで細まっていた目がスッと開くと、紅丸と紺炉の方へと真っ直ぐに視線が向き、二人同時に顔と肩を強張らせた。
オイ紅!と、一帯の空気を振るわせるような朗々とした声が紅丸を呼ぶ。
「一人の人間を命がけで愛せねェヤツが、町を愛せると思うなよクソガキ!」
花火の音にも負けない咆哮が、青々と晴れ渡った大空に高らかと響く。その勢いに一旦は気圧されたものの、すぐに両拳を握りしめ真っ直ぐに体勢を立て直した紅丸は、負けじと叫び返すために、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
〆
(2025.05.31 炎炎WEBオンリーで展示)
(2025.08.02 サイト再掲)