落火流水
雨夜の火
配属当初に比べれば、すっかり頼もしくなった。今回の訓練も、隊に戻ってきた時には毎度口ひとつきけないくらい疲弊しているが、さりとて音をあげる様子はない。
安心して送り出せる。堂々構えて待っていれば良い、はずなのだが――
「桜備大隊長。どうせ、あいつらの様子が気になってるんでしょう? 一度様子を見に行ってみたらどうですか」
胸の内を見透かしたかのような火縄の提案に、桜備は一度言葉に詰まってから、誤魔化すために座っている大隊長室の椅子をその場で一回転させた。
「そりゃま~な~、気にならないってことはないよ。実戦経験が必要って言ったのは俺だけど、第七のやり方はそれなりに荒っぽそうだしな」
桜備が首裏をかきながらモゴモゴと述べた言葉に、火縄が明瞭な口調で提案を返す。
「第一の新人研修の時は自分が行かせてもらったので、今回は大隊長に譲りますよ」
「それってつまり、火縄も心配してるってことか?」
「……夕飯までには連れて戻ってきてくださいね」
「今日は火縄が当番か。なら、あの二人も飛んで帰りそうだな」
じゃあお言葉に甘えて、と椅子を立った桜備を、火縄は軍人の鑑とばかりの整った敬礼で見送った。
「まさか、本当に飛べるようになってるとはなぁ……」
浅草の第七消防隊詰所に訪れた桜備は、頭上数メートル上で発火能力を駆使して走るように宙を飛び回っているシンラを見上げ、独り言を呟いた。ジェット噴射のように凝縮させているのか、足から出ている炎の質や形が明らかに違う。
「別に飛ぶためのもんじゃねェんだが。馬鹿はどうしても高い場所が好きなんだろうよ」
「……」
「……俺も含めてな」
桜備が無言で向けた視線の意図を察して、紅丸が付け足す。力を抜いて縁側にダラリと座る姿にも少なからずの疲労が漂っているのが見受けられ、二人の健闘を感じた桜備は気づかれない程度に喜びの笑みを浮かべた。
「でも、新門大隊長にお願いしてよかったです。俺はもちろん、第八にはこの二人以外に第三世代の能力者がいないので。どうにもアドバイスのしようもなくて」
「なんだ。礼があんなら、遠慮なくもらうぞ」
「あっ、そうか! 世話になってるんだし何か手土産持ってくるべきでしたね」
「……お前ェも大概だな。わざとか天然か、どっちだ」
眉を軽く吊り上げた呆れ顔で首を傾げる。同時に、胡座を掻いている桜備の方へと手が伸びた。膝頭をするりと撫でられる感覚に、桜備は肩をこわばらせてたじろぎ、薄笑いを浮かべ距離を取ろうと及び腰になる。
「いえ、稽古の邪魔をする気はないんで……」
「どうせ今日はもう終いだ。おいシンラァ! さっさと降りてきてとっとと帰れ!」
その場で立ち上がった紅丸が、呼び掛けよりも先に腕を振り、火の玉をまっすぐにシンラに向かって飛ばす。声に応えてシンラが振り返るのと火の玉の着弾はほぼ同時だったが、かろうじて速かった蹴りが打ち消し不発に終わると、それを見ていた紅丸の舌打ちと、桜備の感心した声がちょうど重なった。
――この男、一体どういうつもりなのだろうか。
誘った側としては、最初の夜からずっと、別に無理強いをするつもりなどはない。そもそも、本気の抵抗で馬鹿力を発揮されれば紅丸とて抑え込むのは至難の業になる。そうまでして抱きたいわけでもなし、ただ、面白そうだと思ったから試しに手を出してみただけだ。
もしや本当にただの好き者なのだろうかと疑いたくなるほどの諾々たる受け入れ方に、多少ならずとも困惑している。が、それじゃあ止めておこうともならないのは、好奇心と単純な欲とが躊躇いに勝るからだ。
障子も襖も閉め切った一室で、追い詰められ太い柱に背を預けた男は、観念し切った情けない顔で紅丸を見上げていた。
脱がせ開かせた脚の間に膝立ちで割り入り、人差し指と中指の二本を揃えた指先を、緩く結ばれた唇の間に捻じ込む。
無理矢理に開かせた口内は健康的な赤色で、厚い舌が行き場なく震えている。胃までつながる喉奥目掛けて吐精したい欲求に駆られたが、正直この調子じゃそれすらも許されそうな気がした。
頬の皮膚を伸ばしながら口内をぐるりと一回りし、最後に上顎の内側を擦ってから指を引き抜くと、男はままならなかった呼吸を取り戻すように荒い息を吐き、自らの唾液で濡れて光る二つの爪を見ながら言った。
「そういや、シンラが言ってました。指の型で集中力を上げるって……」
「……言われてみりゃ、この手はそれと同じだな。炎の操作もこっちも、意外と繊細なもんだ。やってることは似てるのかもしれねェな」
「っつ……ん、ッ……」
二本の指先を股の方へと移動させ、穴の周りを一周分擦る。そのまま間を置かずに肉壁の内側を探ると、死体の傷口に指を入れているような、血液特有の生温かさが皮膚にまとわりついてきた。
「随分と柔らけェじゃねェか。……他にも誰か抱かれてんのか?」
「んなわけっ……!」
「じゃあどういう訳だよ」
ちゃちな煽りに噛みついてきたのをすかさず切り返すと、相手はそっぽを向いて押し黙った。追い込まれたのを察したのか、長い沈黙も焦れずに待ってやれば、観念したように口を開く。
「……………じぶんで」
憎々し気に吐き捨てた男の恥辱に堪えかねて涙目になっている顔。それを見て沸き立つ興奮を抑えるために一旦唾を呑んでから、嵌めたままになっていた指を引き抜いた。
「――見てェ」
その要求には、一層辱めたいというだけではなく、果たして相手がどこまで許すのかという興味も含まれていた。
趣味が悪いと苦言を零しはしたものの、結局言われるがままに自らの手で自らを慰める男を、一間程の間を置いた位置から眺める。すでに緩く立ち上がっていたものを申しわけ程度に擦った指は、開いた足の間から後孔へと伸び、華を不器用に拡げている。苦悶の表情で噛み殺している息の音は、手負いの獣のそれのようにガサついていた。
「しかし、結局ヤル気満々だったってことか」
「どうもこうも……相手のやり方が雑だって分かってっからですよ!」
恐らく、この男にとって他人に痴態を晒すことはさほどの大事でもないのだろう。体や精神の真の芯をえぐるような傷以外は、すべてが掠り傷とでも思っていそうな男だ。
別に、その芯を掴んで折りたいなどとは欲していない。
じゃあなんだ?
自分の背中は見ることができないから、常に誰かの影を追っている。
簡単には折れそうにない、なにかを背負っている者の背。死んでからもなおこの町の至る所に巣くい続けている男の影が重なる。
正解を示し切る前に死んだ男。とうにぼやけて霞んだ記憶の中の背が、眼を曇らせる。
「……自分じゃ、最後まではやり切れねェか」
亡者の影を振り払いたいという気持ちと、見ているだけに飽きたのとが重なり、つい手が出た。要領よく快いところを捉えきれずにいる指を手ごと掴み、もう片方の手で、緊張に力み隆起した背中の筋肉の、深い谷の線をなぞる。障子越しの夕陽を受けて輝く健康的な皮膚の色は、日の光を照り返して燃える冬の山並を思わせた。
「っは、……ああ…」
コントロールを奪われた途端、些細な動きにも耐えかね簡単に声が漏れる。敵わない、と慌てて指を引き抜こうとする手を押し留め、その太い指を道具にして、鍋底の焦げをこそぎ落とすようにしこりを捏ねる。
「ぐ、んん、っつ……!」
「はっ…荒いのが好きなら、相性は悪かねェな」
涙目で耐えながらも御立派なものは萎えるどころかますます硬くなっている。その反応を目にし、いよいよ、根を上げるのはこっちの方だ。見たいとは言ったものの、こうなれば、さっさと欲を吐き出さなければ収まらない。掴んだ指を引き抜いて雑に放り、股引をおろす。
「っ……まっ…ッあ、ァ……!」
背中側から一挙に奥まで押し込んだそのまま身を乗り出し、後ろから相手の顎に引っかけるようにして手の平で口を覆う。赤くなっている耳元に頭を寄せると、汗の臭いが鼻を掠めた。
「でかい声出すなよ。そろそろヒカゲとヒナタが戻ってくる頃だ。紺炉に殺される」
身内の妙な力関係をいちいち説明するのも面倒で要点だけ簡潔に告げると、手の平の奥で低い呻き声が漏れる。ならば止めろと訴えている意思は感じられたが、無視をした。
「愛の広さと深さか……」
長官の質問に答えるために扉に向かって口にした言葉が、東京消防庁の建物から外に出た後になって桜備自身に返ってきていた。
洗脳宗教信仰、どれも呪いのようなもの。ネザーで聞いたDr.ジョヴァンニの下品な声が蘇る。では愛は――?
ガードマンに礼をして敷地の外に出たところで立ち尽くしていると、ぼんやりと目には入っていた街の風景の中で、歩道に沿ってならぶ街灯に一斉に灯が点った。ハッとして手首の腕時計に目を落とす。ちょうど日が暮れる時間だ。気づけば周囲も薄暗くなっている。夜の街を照らす天照の光。その内の一つ、すぐそばに立っている白く明るい水銀灯を見上げ思い出したのは、少し前の浅草での記憶だった。
仲見世で偶然出くわした後、手を引かずとも桜備が着いてくると分かった紅丸は、花街の入り口辺りで手を離すと、歩きながら道の両脇にずらりと並ぶ置屋の提灯に順繰りに灯をともし始めた。じっと観察してみても手はほとんど動いていないように見え、火花の出どころも軌道も定かではない。まるで、紅丸が歩くとそれに合わせて自動で点灯するように、機械で仕組まれているかのようだった。
「いつも、新門大隊長が点けて回ってるんですか」
「毎度じゃねェよ。昨日、死人が出たからな……精霊流しみたいなもんだ。別に誰のどんな火で点けようが俺の目には同じに見えるが、ここのやつらにとっちゃ俺の炎は特別なんだとよ」
「……焔ビトですか」
「いや、病気だ。元遊女で……先代の馴染みだった。馴染みっていっても、そういう相手にはしちゃいなかったようだが」
「へえ」
「俺のことは最後まで認めようとしない、めんどくせえババァだった。そのくせ、火葬は俺の仕切りがいいって言って死んだよ。分かんねえなァ、人ってのは」
「そうか。浅草は火葬が主流なんですね」
「なんだ、皇国は違うのか?」
「……人体発火の炎も、祈りで後付けしないと聖なる炎にはなりませんからね。あと、消防官なのであまり堂々とは言えないですけど……綺麗ですよ、炎は。怖いと思うのも美しいと思うのも、別に相反するものじゃないですから」
「……そんなもんかね」
呟くのと同時に、紅丸の足が止まる。気がつけば、通りの一番端まで辿り着いていた。狭い町だが、同時に、一人が背負うには広すぎる町だ。
「あ、そういや……」
一瞬の回想のついでに、あの日の本来の目的だったアイリスへの浅草土産を結局買っていないことも思い出した。選んでやるという申し出は、まだ有効だろうか。桜備は再度手元の時計を確認すると、公衆電話を探して歩き出した。
二人きりでの皇王庁への殴り込みを終え地上へと戻ると、ジョーカーは路地の隙間で壁に寄りかかり、取り出した煙草にカードで火を点けた。吸い込んだ煙を一度吐き出したところで、共に上がってきた紅丸が大通りの光を背に無言で自分を見つめているのに気がつき、声をかける。
「なんだ、パーティーはもうお開きだぜ。まだ俺になんか用があんのか?」
「大したことじゃねェが……てめェ第七、いや、俺以外との関係はどうなってる? こっちが一匹狼と思って今回の話を持ってきたのか?」
「あぁね…おたくと第八とのつながりはもちろん知ってる。あそこには俺のダチもいるんだよ。シンラをまともに戦えるようにしてくれたのも最強、お前だろ? お陰で事がうまく運んでる」
「あの白衣のやつか。なるほど、似たもん同士だな。まあ、お前らの事情はどうでもいいんだが……」
「それじゃあ、気になってんのはなんだ?」
「……そもそも、なんでお前らが第八に協力してる? 敵の敵は味方って寸法か」
「リヒトからすれば真実に近づけりゃなんでもいいって話だが、俺はもう少し理想主義者でね。この国がより良い方向に進んで欲しいと思ってる。で、そのためにはリーダーが必要だ。人が虫みたいに群がりたくなる、圧倒的で禍々しいくらい強烈な光みたいなやつが」
ふー、と長いため息と共に吐き出された煙が二人の間に立ち込め、吐き出した本人の表情を紅丸の視線から隠す。
「第八の桜備は、正にその光だ。まぁまぁ、桜備だけじゃないがね……」
「……」
「俺らみたいな日陰もんからすりゃ、眩しくてしょうがねェよな。直視したら目がつぶれちまいそうだ」
「……勝手に一緒にすんじゃねェ。そもそも、光なんて大層な言い方をしてるがな、そんなのただの贄か、よくて神輿だろうよ」
紅丸の言葉にジョーカーは片目を一度大きく見開いてから、すぐに唇と共に、ニィ、と細めた。笑みを浮かべたままタバコを摘まんでいた指を離すと、地面に落ちた灯を足で潰してから、暗闇へと消えていった。
中華半島と灰島での調査を経て徐々に明るみに出てきた事実は、30年以上の年月をこの皇国で生きてきた桜備のような人間の、根本の価値観を脅かす内容だった。
偽りの聖典と信仰に支えられた皇国。
死体を材料にして焔ビトを生み出す能力。
生きた人間を燃料にしてつくられる動力。
さらには、アドラバーストの研究のために行われていた児童虐待、そもそもの誘拐紛いの所業まで。元より国の中枢がきな臭いのは分かっていたし、何が出てきても驚きはしない。驚きはしないが、かといって気分がいいものではない。
これしきで折れるほどに自分の精神は柔ではないと思いたい。それなのに、折れても許される場所があると知ると、人間はどうして弱りを自覚してしまうのだろうか。
どれほど汚れた物事を見聞きしても、自分が信じるこの世界と人々の根本の強さと美しさは揺るがない。だからこそ前を向ける。
そもそも、第八大隊長の任を背負うと決めてから、前を向き続けること以外の選択肢は存在しない。
人を率い、人に頼られる人間としての立ち方。他人を信じ用いることはできる。命や背中を預けることも。それでも、自らの弱さを委ねることはできない。
圧倒的な強さの中に垣間見える揺らぎや危うさに心を動かされたのは、一種の共感だったのか。
男の火に、自らの弱さを炙り出されてしまいそうだと感じたのか。
熱さよりも、温かさに心は負ける。
自分もまた弱く汚い人間なのだと。そう認め委ねてしまえる場所として、あの温く優しい鬼火を、利用している。
一応何かしらの理由付けはあった方がいいかと、ヴァルカンが紺炉の要望を受けてつくってくれたミキサーを届けるという体で浅草に向かった。
開口一番「何しに来た」と尋ねられ「会いたくなったから来た」と、そう答えた時の相手の拍子抜けした顔は可笑しかった。
正直者で嘘がつけない人間の存在は、なるほど、この国にとってはおおいに厄介だろうが、だからこそ、好ましいのかもしれない。
桜備が浅草に向かう時すでに湿気が満ちていた夜空は、最中、互いに熱が上がりだす頃になっていよいよ限界を迎え、雨粒が鼓のように瓦屋根を打ち始めた。終えた後になっても弱まりこそすれ途切れる気配はなく、止むのを待つのを諦めた桜備は、大人しく雨の降る中を隊へと帰ることに決めた。
玄関の隅に立てかけてあった使い古しの傘を、外へ出るとすぐに、開いた状態で渡される。それを受け取って頭上に持ち上げると、紅丸は当然のような顔でその傘の下へと入り込み、共に歩き出した。事が終わった後に、その場で別れないで見送られるのは初めてだった。
そう大きくはない町の外れに至るまでの五分程、雨のせいか時間のせいか、水が溜まりぬかるむ道中、誰一人とも擦れ違わなかった。
思いきって飛べば辛うじて飛び越せそうな暗いの細い川。その川にかかった橋を渡れば、浅草の町の出口の一つに至る。その橋の途中で、紅丸が足を止めた。丸く反った太鼓橋の丁度中央辺りで欄干に手をかけ、流れる川を覗き込む。その頭を追って傘を動かし、桜備も隣に並んだ。
「つまり問題は、ラフルス一世が人か人じゃなかったのか、ってことか」
「その辺は、新門大隊長で中央協会の地下で聞いた通りです」
「……てっきり、あの一件で小言でも言われるんじゃねェかと思ったが」
「いやぁ、俺も過去に命令無視で罰を受けてる側なんで……人のことをとやかく言えないというか……」
傘を持っていない方の手で首裏をかきながら苦笑いをする桜備を、紅丸が顎を持ち上げ上目遣いで見やる。
「これはバーンズにも言ったことだが、人間だって人類や神の前にただの動物だろ。だとしたら、獣と人間の違いはなんだ」
獣染みた行為の後だと、妙に説得力のある言葉だ。桜備は目を軽く見開き、やけに真剣な顔付きの紅丸を見下ろした。
「……他人を愛せるかどうかじゃないですか」
言い出すまでに躊躇いはありながらも、きっぱりとした口調で答える。後に生まれた沈黙を、雨の音が埋めていく。
「……愛か」
紅丸は視線を逸らしてからボソリと呟くと、くしゃくしゃと前髪を手で掻き乱し、その手を自らの顔の前に広げた。
「人間、愛した相手に殺されることも……殺すことだってあるだろ。だからこその人間か?」
「この国もそうだ。そこらへんに落ちてる野良犬や糞よりよっぽど薄汚い……。天照の加護ってやつも愛か? あれこそ、嘘くささの骨頂だろうよ」
「なあ、お前の正義の先に何がある。たとえ世界を救っても、いつかその世界に殺されるかも知れないってのに」
すぐ横で吐き捨てられる問いの霰を受けとめながら、桜備の視線は眼下で流れる川に向いていた。
今日の川は黒い。灯りの少ない浅草の暗闇の中にあってなお分かるほどに黒い。
火にくべられる薪のように、降り続ける雨の粒が川に落ち飲み込まれ水量と黒さを増していく。
言葉を探して黙っていると、不意に、傘の柄を掴んでいる手に何かが触れた。その感覚に反応して面を上げ、甲骨に触れている指先から手、腕、肩を視線で伝い、相手の顔を見た。こちらを見上げる目と目が合った瞬間、思わず声が漏れた。
「あっ……」
――こんな顔、若さ故だけで済まされるか? そんな目をしておいて、自らの内の熱に気づいていないなんて。まるで初恋に触れたばかりの幼い子どものような顔を、これより前もこれから先も、誰を相手に恋をした時にも向けるのだろうか。そんな気もした。そんな男な気がした。
皮膚の表面にそっと触れているだけの指先からは、無造作に手首を掴む手よりもよほど固い意思を感じた。これまでに見たことのない朱とも銅ともつかない色で光る眼が、瞳と瞳の間の距離感を狂わせる。
どちらからともなく顔同士が近づくと、揺れた長い前髪から雨の匂いに混じって煤の焦げ臭さが薫った。ついさっきもっと近い距離で抱き合っていた時には感じなかったのが不思議だ。
身を離したそのまま、傘の下からするりと抜け出して踵を返す。背を向けて歩き出した背中を、桜備は慌てて引き留めた。
「傘、いいんですか」
「いらねェ。持ってけ」
でも、と食い下がって引き留めようとする先で、だらりと垂れ下がっていた右手がゆっくりと持ち上がり、二本揃えた指先が天を指した。そこから半円を描くようにサッと振り下ろされる手。その動きに合わせて、紅丸の体を赤い炎が包む。
「こんな雨、すぐ乾く」
降りかかる雨を跳ねのけ蒸発させ、湿っていた長髪は空気を帯びて浮き上がる。言葉通り、こんな雨はこの男の道行きにとって些末なものなのだろう。
火の粉も雨も、災いも。自らに降りかかってくるものすべてを、自らの手で払い除け生きている。
背中は一度も振り返ることなく、雨で煙る闇の向こうへと消えていった。