落火流水
原作出会いから最終巻あたりまで/体の関係から始まる系
犬も燃えれば灰に変わる
はじめて体を重ねたあの晩、声を聞いた。
その声は、地を這う獣の唸りのようでもあり、空を震わす木々の戦慄きのようでもあった。何を伝えようとしているのか、そもそも自分に伝えたいのかも判然とはしなかったが、それでも、間違いなく人の声だった。
どこか気を逸らす隙を探していた自らが生んだ幻聴か。煉合の炎に吞まれまいと酸素の溜まり場を求めていた、酸欠気味の脳が幻を聴いたのかも知れない。
「 」
あの声は、一体――
思いも寄らない騒動へと発展した浅草での伝道者絡みの調査が終わり、そのまま第七の詰所に一晩泊まった翌日、第八の面々が雷門の前でマッチボックスに乗り込む中、最後まで車外に残っていた桜備の袖を背後から誰かが引いた。引っ張ると同時に、桜備、と低い声で呼びかけたのは、見送りのために来ていた紅丸だった。
「お前さん、今日の夜は体空くか?」
「俺ですか? 夜勤の当番ではないので……恐らく九時くらいには」
「十分だ。お前らが昨日の主役みたいなもんだからな。よけりゃ戻って顔出せ」
さっき盃を交わすのと同時に始まった宴会は、恐らく昼間の内には終わらないのだろう。紅丸のその提案を、桜備はそのまま言葉通りに受け取った。その時は、長官への報告や今後の対策が脳の大半を占めていて、言外の意図など考える余地も無かった。
折角だから走っていくか。と、普段のランニングの延長で第八の教会から浅草の町を目指した。朝方教会に戻ってから報告書をまとめる中で、昨日の一連の出来事も桜備の脳内である程度整理がついていた。人の少ない川沿いを走る時間は、整理した内容を改めて思い返すのに丁度良かった。
第七特殊消防隊、特に大隊長と中隊長の二人は、戦力としてあまりに心強い。本来目的としていた調査はほぼ空振りに終わったものの、収穫としては十分だろう。多少の怪我は想定の範囲内……とはいえ、焔ビトによるものよりは、仕組まれた内輪揉めの結果ついたものがほとんどだ。
焔ビトはともかく、通常味方であるはずの能力者と闘うのは初めての経験だった。
炎を持って焔を制す。
今の世の中で火を扱えず、怯えるか立ち向かうかしかできない自分は間違いなく無力だ。だから、頼れるものはすべて頼らなければならない。
「……新門紅丸か」
いくら唯一無二の煉合消防官とは言え、たしかまだ二十そこそこの青年だ。元々所属していた一般消防士の世界だとしたら間違いなく経験の足りない若手とみなされる。
それでも、噂で聞いていたイメージとは大きく違っていた。神を信じない原国主義者。祈らない鎮魂を押し通すならず者。徒党を組んで皇国に抗する荒くれ共の王。そんな立場から想像される大胆さや横暴さよりはむしろ――
必要以上の事柄にまで考えが及びそうになっていたのに気がつき、頭を振って思考をリセットする。走る足の動きに合わせて揺れる視線を、暗い道の先に向けた。
とりあえず、彼と、彼に従う人達を信じると決めた。今は、それでいい。
集中力を欠いていたせいか、気がつけば雷門の前に到着していた。灯りはほとんど点いていないものの、独特な門と提灯の形は分かる。朝とは雰囲気がまったく違うその場所を不思議そうに見回していた桜備は、闇の奥からぬっと現れた動く影を目の端で捉え、咄嗟に体と意識を緊張させた。
「あっ……新門、大隊長」
「まさか、ここまで走ってきたのか? 体力までバケモン並みだな」
「そんなに遠くはないですよ。今度こっちまで来てみてください。それより、もしかして自分のこと待ってたんですか?」
「待ってたわけじゃねェよ。酔い覚ましの散歩だ。……だが、丁度良かった」
そう言って、紅丸は突然桜備の左手首を掴んだ。
さきほど酔い覚まし、と言っていたが、なるほど。昼間見たけったいな笑顔が浮かんでいないのであれば、今は酔いが覚めているという証拠なのだろう。表情だけで酔っているかどうか分かるのは本人にとっては癪に障るだろうが他人からすると便利だ。
酔っているわけではない。それならそれで、これはなんだ。
「あのっ、どこ行くんですか?」
返事はない。それでも、手首を掴まれ引きずられるままに後をついて行きながら周囲を観察していた桜備は、うっすらと合点していた。
静かだった門前から1本逸れて明るい方へ、道幅が狭くなった途端に人通りが増え、両脇に並ぶネオンは脳に直で刺さるようなケバケバとした色とデザインで輝いている。消防庁長官をはじめ、男同士の付き合いの一貫として夜の街の多少いかがわしい店に付き合わされる展開は珍しくない。それに、半ば観光地化している浅草の歓楽街が発展しているのは、皇国の他の地域でも有名だ。
こういうのは好きではないが、嫌というほどでもない。諦め気味に引きずられていると、紅丸の足は歓楽街からさらに一本脇の路地へと入っていった。
競い合い光っていた電飾は鳴りを潜め、同じサイズ同じ色の地味な看板と、同じ紋が入った提灯が等間隔で並ぶ。屋根を共にした二階建ての建物が連なり、前を通ると、開け放たれた一階部分の玄関から客引きの老女が甲高い声で呼び掛けてくる。その内の一人が紅丸を目に留め、他とは違う呼び掛けを投げてきた。
「あら、紅ちゃんじゃないの?! 久しぶり!」
歩き始めてからズンズンと進むばかりだった紅丸の足が初めて止まったのもそこだった。
「おい。隣、借りるぞ」
営業用ではない自然な笑顔を浮かべ紅丸に手を振る老婆に対し不愛想にそう告げると、すぐに足の動きを再開させる。店の隣の灯りの点いていない建物の引戸を開き、視界の効かない暗い土間からそのまま二階へ。花街の異様な雰囲気に呆気にとられていた上に構造を把握していない桜備は、壁や柱にぶつからないようにするだけに手一杯で声を挙げる余裕もない。が、説明らしい説明もなく連れ込まれた布団しかない部屋が、そういう目的の場所だろうということは察しがついた。
「そんじゃ、昨日の続きといこうじゃねェか」
ようやくの第一声とともに、布団を無視して畳の上に転がした桜備の、腰骨のやや上あたりに素早く跨る。男一人分の体重で胃を潰される衝撃に耐えかねた桜備は、脊髄反射で濁った呻き声をあげた。昨日とは違って分厚い防火服も着ていない分体に受ける衝撃も大きい。
「いや、もう喧嘩する理由なんてないでしょ?」
潰されて締まった喉を慌てて開き、わざとらしいまでに困惑を目いっぱいに込めた声を張り上げた。乗り上がった方はそれを意に介した様子もなく、自らの法被の巻帯を片手で器用にほどいている。
「ちょっ、新門大隊ちょ――」
「いちいち長ぇよ。紅でいい」
肘をついて持ち上げようとした桜備の上体が、すかさず肩を押され畳に戻される。体格では勝っているはずなのに簡単におさえ込まれてしまうのは、体の使い方の熟達度の差か。これだから、持って生まれた人間は嫌なんだ。
「まァそもそも、名前なんて呼ぶ必要ねェだろ。他に誰もいねェんだからな」
当然、ここまでくれば桜備にもその意図は分かる。それでもまだ、驚きの方が上回っていた。
「あの、俺、今走ってきたばっかりなんですけど」
「気にするかよ。どうせ汗かくんだから一緒だ」
そう鼻で笑い飛ばしながら、右手をTシャツの裾から潜り込ませ、わき腹を爪で撫でる。他人の手が肌を這う感触に、桜備は思わず四肢を強ばらせた。
役職としては同じ大隊長ではあるが、そもそも第一から第八まである特殊消防隊には明確な序列が存在する。新設で隊員数も少なく設備資材も最低限しか与えられていない第八は、もちろん一番格下だ。第七はイレギュラーな存在とは言え、設立は第八よりも早い。訓練学校から消防隊を経て、上下関係に厳しい組織の体質が染みついている桜備からすれば、どんな些細な命令であっても逆らうのには勇気がいる。
――それにしても、まだ俺で良かったな。
マキや、もしくはシンラやアーサーが狙われていたら問題も変わってくる。自己犠牲のつもりは無いが、立場的にも、それと肉体的にも精神的にも自分が一番ショックは少ないだろう。
ただ、それにしても、だし、よりによって、でもある。
あえて自分を選ぶというその好みは正気を疑うが、とはいえ、頑強な男を屈服させたいという欲求を持つ人間は、それこそ消防隊のような男性中心の組織では珍しくはない。
「……おい」
状況にそぐわない冷静な思考が態度に出てしまっていたのか、跨った男はイラついた様子で舌打ちをした。右手を一度頭の高さまで振り上げ、自らの顔の前に戻す。人差し指と中指を揃えて立てた指先に、小さな火が灯った。
「一万だ」
一本の蝋燭の火程度のともし火でも、ほとんど光のない薄暗い部屋では十分な光源だった。桜備を見下ろす顔が橙色の炎に照らされ、目の下に普段からある隈以上に濃い影をつくる。
「浅草の火消しが殺してきた焔ビトの人数。昨日の晩に俺が紅月で葬ったヤツで丁度一万。……それが浅草の人間じゃないってのは皮肉だな」
「……全部、数えてるんですか」
「ああ。皇国の消防隊と違って、浅草には人殺しを代わりに背負ってくれるような神さんがいねェからな」
第七との関係を良好に保ちたいという打算はあるものの、こんな横暴は撥ね退けても当然構わない。それなのに、どうにも抵抗しようという気が沸いてこなかった。無体を強いる側としては、相手がどうにも繊細すぎるからだろうか。
今も、こちらに対する挑発というよりは、むしろ自らの感傷に浸っている。遣る瀬無い哀しみのぶつける先に迷い、性欲を捌け口にして吠えている。その青々しい惑いは桜備の目から見ればある種の可愛げにも映った。
もういいか。
潔く受け入れることを決めた桜備は、その意思を示すために、火が灯っている方の紅丸の手首を掴んで自らの方へと引き寄せた。
「――っと! おい、あぶねェだろうが」
危うく肌につきそうになったところで、紅丸が慌てて指先の炎を散らす。いまだ手首を掴んだままの桜備は、火の消えた素手の手の平に、自らの頬を擦りつけた。目線は、赤い目を細めやや困惑した様子で自分を見下ろしている男に向ける。
「……お手柔らかに、しなくていいですよ。割と頑丈にできてるんで」
雑で荒々しいガブガブと嚙みつくようなキスを受けとめていると、ふと、昔飼っていた犬を思い出した。捨てられているのを桜備自身が見つけ、両親に頼み込んで飼うことになった犬だ。犬種は何が混ざっているのかも分からない雑種で、ビー玉のような丸く大きな目をしていた。
愛嬌こそあれ飼い主の言うことを聞く犬ではなく、くわえて中型犬で体格もそれなりにしっかりしていたものだから、散歩を担当していた幼いころの桜備に従うどころか、反対に引きずり回して喜んでいた。
躾ようにもできない犬だったが憎めないやつで、どれだけ悪さをしても最後には許してしまう。こんな風に、朝寝ているところに突然のしかかってきては無理矢理に起こされた記憶も蘇ってくる。
アイツのことを思い出すのは随分と久しぶりだ。最後は病気で、それでも平均寿命以上に長生きして死んでから、もう十年以上がたっている。死んだ後には、ペットのための火葬場で骨にしてもらい、庭に墓もつくった。
そうか。思えばアイツは、俺がはじめて燃やした存在かも知れない。
皇国の神様は、ちゃんとペットの魂も救ってくれるんだろうか? 半ば疑いながらも律儀に手を合わせラートムと祈りを捧げたのを覚えている。
デカい犬に噛まれているショックを和らげようとあるかも分からない天国に想いを馳せていたら、ちょっと泣きそうになった。
全身が、馴染みのない痛みに対して不平不満を訴えている。馴染みはないが覚えはある。体の持ち主である桜備本人が痛みの原因を一番よく分かっていた。
……そりゃそうだ。準備体操も無しにあんな真似しちゃ怒りたくもなるよな。
「桜備大隊長、おはようございます」
桜備が着替えの途中で手を止め自らの筋肉――主に大臀筋と深層外旋六筋のあたり――と会話していると、夜勤明けの火縄がロッカールームへと入ってきた。
「おぉ火縄、おはよう。昨晩は変わりなかったか? しかし悪かったな、調査でバタバタした後に夜勤と留守番頼んで」
「いえ別に、元々のシフト通りですから」
火縄の淡々とした口調の返答を聞いた桜備は、苦笑しながら着替えを再開させた。すると、その様子をジッと見ていた火縄が、不意に自ら口を開いた。
「昨日の夜は、浅草に行ってらしたんですよね?」
火縄のそれは、質問というよりは確認だった。昨晩、職務時間外で、かつ数時間程度で帰るつもりとは言え、何かあった時のために桜備は中隊長にだけ行き先を伝えてから教会を出た。
「ああ。それがどうかしたか?」
「いえ、顔色が優れないと思って。珍しいですね。二日酔いとは無縁な人だと思っていました」
火縄の指摘に背筋が凍りそうになるのを、桜備は口を大きく開いた笑顔で誤魔化した。恐ろしい男だ、と出会ってから何度目かになるか分からないくらい覚えた感想が頭に浮かぶ。
「や~、普段飲みなれない種類が多かったからかな……」
「そうですか。何にせよ、ほどほどにしてくださいね」
話をしながらも着々と着替えを終えていた火縄は、先に着替え始めていたはずの桜備よりも先に部屋を出て行こうとしていた。仮眠に入る時のラフなTシャツ姿で、謎めいた帽子も被っていない。
「それとここ、火傷してますよ。……てっきりキスマークかと思いました」
ここ、と人差し指で自分の右頬をトントンと叩く。火縄のそのジェスチャーを見て、桜備は慌てて自分の頬を手の平で押さえた。動揺が見て取れる動作だったが、火縄に気にする様子はなかった。
「もし次があったら、今度は俺も付き合いますよ。潰されるにしても、一人より二人の方がまだマシでしょう」
ドアを閉めて出ていく直前、そう言いながら、冷静な顔に一瞬だけ微笑みを浮かべていた。どこからなにまでが冗談で本気だったのか、桜備は判断するのを放棄した。代わりに、最後に言われて引っかかった言葉を自らの口で呟き直す。
「次、か……」
昨晩事が終わった後、見た目に寄らず人の世話を焼く習慣のあるらしい男は、風呂の用意などは手際よくしていたものの、終わった事を蒸し返すような睦言は一切口にしなかった。その後すぐ宿の前で別れ「じゃあな」と短い挨拶だけを残して朝方まで消えないのだろう花街の灯の奧へと消えていった背中を、桜備は黙って見送った。
もちろん、次の約束などはしていない。
それでも無理矢理に結んだ縁が一夜で終わったとは思えないのは、期待でもなんでもなく、ただの勘だった。
ヴァルカンが正式に機関員として入隊すると、第八特殊消防教会は途端に、ますます賑やかになった。メンテナンスと称した元々ある機器の修理に留まらないあらゆる改造が至るところで行われ、工具や機械の動く音が絶え間なく響いている。
トレーニングルームの隅で故障したままになっていた遺物を修理したという報告を受けた桜備は、見違えた機器を前にし、感嘆に目を輝かせた。
「さすがだな! しっかし、こんなすごい能力があるんだから、無能力者なんて言い方よくないよな」
「それを言ったら、大隊長だってそうだろ。シンラもアーサーも、あんたのことをかなり信頼してる。それは、人を見抜く力と信じさせる力があるからだ」
大人に媚びる性質の一切無い青年の言葉は、賞賛というよりは冷静な判断だった。赤く染めた頭を擡げて自分を見上げるヴァルカンの真っ直ぐな視線を、桜備はぎこちない微笑みで受け止めた。
機関員と化学班がほぼ同時期に揃い、黒幕と思わしき組織にも新たな動きが見えた。物事は動くときには大きく動く。仲間も、増える時には一気に増える。
桜備は、大隊長室の椅子に座って目を瞑り、第八特殊消防隊立ち上げから増えた人員を一人ずつ脳裏に思い浮かべていった。
皆、信用に値する。俺の判断は間違っていない。最も付き合いの長い火縄中隊長であっても、「今の彼」が信用できるかどうかを常に問い直し続けている。
人体が突如発火するように、人の心も容易に変わってしまう。昨日信用できた相手が、今日心変わりして敵に寝返っていてもおかしくはない。
――第八特殊消防隊の立ち上げにあたって、人員配置の要望はできる限り叶える――
協力者である消防局長官から厚意的な申し出があったものの、桜備は火縄以外の人間を引き入れることはしなかった。
必ずしも、発火能力の有無にこだわっていたわけではない。一般消防官時代の同僚や部下のなかには、強い正義感と優れた身体能力を備えた人材は多い。たとえ青線じゃなくても、一歩間違えれば死ぬ現場に身を置いてきたのは同じだ。長年の勤務経験の中で、危険を伴う火災現場で背中を預けられるくらいには連携の取れる存在もいた。
それでも、誰一人として選べなかった。
他の隊とは目的を異にする、言うなれば偽りの特殊消防隊だ。だからこそ、本物の消防官だけを集めないといけない。
人を見定める必要に駆られた時になってはじめて、自らの疑い深さを知ったのだった。
対白装束の協力者間での情報共有のために会議を行うにあたり、各所への連絡は桜備が受け持った。もちろんその中には浅草の第七特殊消防隊も含まれている。第一のカリムから順番に電話を掛けていった最後、五回ほど繰り返された呼び出し音の後、電話口に出たのは壮年の低く落ち着いた声だった。
その声を聞いた途端に緊張が解けたのを感じて、自分が緊張していたことに気がついた。
「悪いなァ。若が来れなくて」
会議が終わりそれぞれの大・中隊長が自らの本拠へと戻る中、最後に残った紺炉が、帰り際に玄関ホールで見送る桜備にそう話しかけた。
「いえいえ、お忙しいでしょうから」
「忙しくはねェんだが、浅草の外に出るのはどうにも億劫がってね。それに、まァ分かると思うが、若は口で説明すんの得意じゃないからな……」
「あぁ、そこはうちも同じです。中隊長が説明上手だと大隊長は助かりますよ」
「そういや、ちょっと気になってんだが……」
「白装束のことですか?」
「いや、そうじゃなくてあっちの柱の陰にいるねぇちゃん……来てからこっち、えらく俺のこと見てる気がしてね……」
「あっ! シスター……いえ、彼女この前の調査の時に同行できなかったので、浅草がどんなとこなのか気になってるみたいで……」
「そうかい。だったら何か浅草土産でも持ってきてやりゃよかったな」
桜備の説明で納得したのか、紺炉は少し気の抜けた微笑みを浮かべてそう言うと、柱の方に向かってヒラヒラと手を振り、浅草へと帰っていった。
紺炉に言われてはじめて、先日留守番をしてもらっていたシスターへのフォローが足りていなかったことに気がついた。当日は買い物する余裕などなかったし、そもそも町自体が半壊していたので致し方ないとはいえ、気が回っていなかった事実に反省する。
「まだ16歳だもんなぁ」
一般消防局との連携に関する打ち合わせのために外出した帰路、少し遠回りして浅草にまで足を延ばした桜備は、賑わう目抜き通りの仲見世でアイリスへの土産を物色していた。原国の趣が強い小間物屋の店先で、顎に手を当てひとしきり悩む。一回り以上年齢が違う女性に物を贈る機会など早々ないし、自分のセンスへの自信もない。そもそも、土産よりも休日にでも本人を浅草に連れてくるのが一番喜ぶだろうが……
「しかし、俺が連れてくるってのもな……シンラにでもそれとなく頼むか……」
悩みながらぶつぶつと独り言を呟く桜備の右隣、庇の影の中にふいに別の客が入り込んできた。
「なんだ、女か?」
自分に話しかけられるまでその存在に気がついていなかった桜備は、ハッと隣を振り向いて驚きの声を挙げた。
「うわ、新門大隊長! なんで?!」
「たまたまだ。デカいから嫌でも目に入んだよ」
二人が話していると、よぉ紅、と店の少し奥にいた店主が話しかけてくる。少し気まずそうな表情をしているのは、カモだと見繕っていた皇国の客がまさか浅草の顔役の知り合いと分かったせいだろうか。
そちらに一瞥を返した後、紅丸はニヤリと笑いながら未だ少し困惑している桜備の顔を見上げた。
「どうせ慣れてねェんだろ。俺が代わりに選んでやろうか?」
「まぁ、それは正直……ありがたいですけど」
「なら、どんな相手なのか教えろ」
「どんなって……――」
紅丸の質問に、桜備が視線を斜め上に投げながら再びさっきまでと同じように頭をひねる。
「信心深くて、真面目で…愛嬌があって……」
要領を得ないで止め処なく続く説明を、おい、と紅丸が途中で遮った。
「馬鹿ヤロウ。見た目の特徴を聞いてんだよ」
「あ、そうか。そりゃそうですね」
「お前ェさん、モテねぇだろ」
紅丸はそう言って指先で台の上に並ぶ簪や櫛を品定めながら、唇の片端を持ち上げ喉の奥の方で笑い声を響かせた。否定もできない桜備は、おとなしくアイリスの顔を頭の上の方に思い浮かべていた。
「見た目かぁ……うーん、なんだろう、小動物みたいというか、髪は小麦色で、これくらいの長さで…え~っと……あ、そうだ。年齢は16歳です」
「16だァ?! まだガキじゃねェか」
「そもそも、ただの部下なんで! 第八のシスターですよ」
「しすたー……? あァ、聖陽教の……」
耳慣れない単語に首を傾げながらも自力で言葉の意味に思い至ると、紅丸は軽く眉を顰めた。その顔を見ていた桜備が、そういえば、とそれまでより声のトーンを落として口火を切った。
「思い出した。この前言ってたこと、反論させてください」
「この前?」
「浅草の火消は皇国の消防隊と違うって言ってたアレ。俺たち皇国の特殊消防隊だって、焔ビトを殺すのに躊躇いがないわけじゃない。シスターの祈りは本人や遺族への慰めであると同時に、俺たち消防官にとっても必要なものです。彼女たちの祈りが、彼らが元は生きた人間だったことを思い出させてくれる」
前髪の隙間から覗く紅丸の瞳は何か言いたげに桜備を見返していたが、口は一の字に結ばれたままだった。
「数えるまでもなく、今までに奪った焔ビトの命も、守れなかった人達の命も全部背負ってやってんですよ。こっちだって」
語調こそ落ち着いていても意志が伝わるようキッパリと言い切った桜備の言葉を、紅丸は表情を変えずに黙って聞いていたものの、数秒するといつものような気怠い笑みを浮かべ、顎先をしゃくって挑発するように頭を斜め後ろに捻った。
「なんだ、こんな往来で喧嘩してェのか?」
「別に、喧嘩する気はないですけど。そもそもこれ以上言いたいこともないし……」
「そうかよ。じゃあやることはひとつだな」
そう言うや、数歩分開いていた二人の間の距離を詰め、同時に、無防備にぶら下がっていた桜備の手首を掴む。掴まれた方の桜備は、反射的に後ろに飛びのきそうになったのを耐え、その場で踏ん張ったまま戸惑いを口にした。
「いや、そういうつもりも……」
「そういうつもりかそうじゃないかは、俺が決める。そもそもここは俺のシマで、勝手に入って来たのはそっちだろうが」
桜備は不遜な物言いに面喰いながらも、この段になって、明日から予定しているシンラ達の実践訓練の件についての礼を伝えていないのを思い出していた。まあ、たいして時間はかからないし終わってから言えばいいか……と、そう考えながら、すでに始めて終える気でいる自分を情けなく思う。
――しかし、この前の夜もそうだったように、手首を掴む手の力はさほど強くはない。常に持って生まれた能力を抑え込む方に神経を使って生きているのだろうとは想像に難くないが、それにしても控え目だ。
こちらが否の意思を示せばそれで終わる。
横暴なようでいて最後を他人や相手に委ねてしまう弱気は無意識なのかと、先立っての騒動の時の、大隊長の身分を巡っての紺炉とのやり取りを思い起こしながら考えを巡らせた。
理由はどうであれ、委ねられ、選んでいるのは自分だ。
少なくとも、焔ビトの命を“奪う”と、“殺す”と表現する人間は信用できる。そう思ったのがこの前か。とはいえ――
「……まったく同じ、ではないか」
手を引かれて歩きながら、前を行く人には聞こえない程度の声量で呟く。
焔ビトの核を手刀で焼き切り、深く親しんだ町民を灰燼に帰す。鎮魂を終えた背中に漂っていた、燃え盛る炎に相反するような寂寥とした気配が脳裏をよぎる。払っても消えない霧のような違和感が、意識に引っかかる。振り払おうと思えばあっさりと振り払える手をそうしなかった理由は、その程度のものだった。