ツキハヒガシニ

    

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桜を彫りたい紅丸の話1


「なぁ、紅丸ちゃんグレちまったのかい?」
 そう紺炉に尋ねてきたのは、彫師として浅草で長年腕を振るっている熊五郎という男だ。先代の墨も手掛けていて紺炉よりも二回りは年嵩で、顔には墨ではなく皺が深く刻まれている。彼に限らず、元第七特殊消防隊の詰所、現世界英雄隊浅草支部の玄関前で日課の掃き掃除をする紺炉に声を掛けていく町民は少なくない。ただの挨拶や喧嘩の仲裁願い、噂話の吹き込みなど……話題はさまざまだ。
「まさか若がまた何かしでかしたか」
 これまた頻繁に出てくるのが主でもある紅丸の話だが、ここに関しては良い話と悪い話は五分五分といったところ。今回は悪い話か。心配そうな顔で投げ掛けられた質問に、紺炉がとっさに姿勢を正して訊き返すと、彫師の爺は、ちがうちがうと風呂敷包みを下げた右手とは逆の手を顔の前でヒラヒラと振った。
「墨を入れたいんだと」
「墨ィ?」
「変だろ。今までこれっぽっちも興味なかったってのによ。なんか悪いもんでも喰ったんじゃねェか?」
 首を傾げる男に同調して、どうしたんでしょうねえ、と返しながらも、紺炉の内心では思い当たる節があった。
 そういえば、第八の森羅は『どっぺるげんがー』の影響で別人になっている間に、本人のあずかり知らぬところで全身墨だらけになっていたと聞く。大災害も解決した今、まさか紅丸のどっぺるげんがーが現れたとは考えにくい、が。
「ちなみに……」
 根拠のない心あたりを確証に変えるのは気が引けた。だが、確証に変えてしまえば些事として片づけられる。
「その……どんな柄を入れたいかなんて話もしたのかい?」
「ああ聞いたよ。花だってさ。桜だ。どうせなら龍でも鳳凰でも入れたら似合うってのに」
「……そうか」
「一度彫っちまったら消すんも大事だ。お前さんに一回相談してみたらどうだーって、そう言ったら、ガキ扱いすんじゃねえって拗ねられちまってね。詫び代わりに、ホラこれ、ウチのばあさんが作った饅頭」
「余計ガキ扱いされたって怒るんじゃないか?」
「ちげえねえ」
 用を足し終えた男は、ワハハ、と豪快な笑い声をあげながら去っていく。それを笑顔で見送ること数秒、男の背中が米粒ほどになったところで、紺炉は真顔に戻り湿っぽいため息を吐いた。
 さて、どうしたもんか。

 

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