SS 桜を彫りたい紅丸の話7 続きを読む ――危なかった。 紺炉が出て行った後、部屋で一人になった桜備は机に両肘をついて項垂れ、安堵の息を吐いた。 恐らく、あの世話人は自らの主人の奇行にも、その原因にも気づいている。 人並の恋愛経験を有し、惚れる方と惚れられる方どちらの立場も経験がある桜備にとってみても、紅丸の態度はあからさまだった。立場や年齢や性別や、否定するための要素をすべて無意味と取り去ってしまえば、それはあまりにも明らかだ。無意味と取り去った方が話が早い、そういう規格外の相手でもある。 ただでさえ、新門紅丸という男は人の好き嫌いが分かりやすい。嫌いな人間は徹底的に嫌いだし、好きな人間はあっさりと懐に迎え入れ等しく愛する。 等しく愛されている内の一人。そうだったはずが、どこで、いつのまに変わってしまったのだろう。相手の変化のきっかけは分からないが、それに桜備が気がついた瞬間は覚えている。 浅草上空に現れた巨大な鳥を総出で退治し、そのままソイツを丸焼きにして宴会に興じた夜のことだった。時間も遅くなり、次の日早朝から予定が入っていた桜備は頃合いを見て中座しようと腰を上げた。それを引き留めようと、グイ、と緩いズボンの裾を引っ張っていたのは紅丸の手だった。 「まだいいだろ」 スクワットのような中途半端な体勢で固まった桜備の顔を見上げる。それまでは酒が入ってニコニコと笑っていたはずが真顔に戻り、瞼に隠れていた左右非対称な瞳が開いている。眉根にはシワがより、まさか怒っているのかと心配になる表情だったが、酔っているのは間違いないようで、赤く染まった頬が怒るというよりは拗ねた子供じみたかわいらさに和らげていた。 「明日、朝早いんでこれ以上はちょっと……」 紅丸は酒の席に限界ギリギリまで留まる方だし、宴会には人が多ければ多いほど良いと思っているタイプではあるが、他人に無理強いすることはない。というより、誰がいつ来ていつ帰ったのかなど把握していない。だから、この時の対応は桜備にとってかなり予想外だった。 「いやだ」 振り払いたくても振り払えないくらい本気の力で掴まれた裾を、一体どうやって引き剥がしたのかはよく覚えていない。今になって思う。あの時引き留めに応じて帰らないのが正しい選択だったかもしれない。手に入らなかった経験が余計に欲を燃え上がらせるのはよくあることだ。 あの一件以来、紅丸の態度や視線に欲の混じった色を感じる瞬間が増えた。若さとは恐ろしい。ギラギラと光る欲の刀を大人しく鞘に仕舞っておくなどできないのだろう。 気づいていない振りでやり過ごせればそれはそれで。そう考えてのらくらしていたところで、今日の紺炉の様子伺いは耳が痛かった。とはいえ、紅丸の変化を察せれるとすれば彼しかいない。真っ先に気づくだろう人物に気づかれただけ。まだ状況は深刻ではないのだ。なにか問題があるとすれば―― 「俺、喜んじゃってんだよなぁ……大人としてどうなんだ?」 うんうんと悩みながらも、耳は扉の外のざわめきに注意を向いていた。さっき部屋を出た紺炉と、恐らく火縄が、さっきから何やら話している。内容までは聞き取れないが、言葉が途切れ遠ざかる足音が聞こえて、会話の終わりを察する。パン、と両頬を手の平で打ち付け気合いを入れる。 自らの動揺を悟られるようなことだけは避けなくては。そう気合いを入れ、予想通りのタイミングで鳴った火縄特有の固く鋭いノックの音に、どうぞ、と大きな声で返した。 畳む 2025/03/20
――危なかった。
紺炉が出て行った後、部屋で一人になった桜備は机に両肘をついて項垂れ、安堵の息を吐いた。
恐らく、あの世話人は自らの主人の奇行にも、その原因にも気づいている。
人並の恋愛経験を有し、惚れる方と惚れられる方どちらの立場も経験がある桜備にとってみても、紅丸の態度はあからさまだった。立場や年齢や性別や、否定するための要素をすべて無意味と取り去ってしまえば、それはあまりにも明らかだ。無意味と取り去った方が話が早い、そういう規格外の相手でもある。
ただでさえ、新門紅丸という男は人の好き嫌いが分かりやすい。嫌いな人間は徹底的に嫌いだし、好きな人間はあっさりと懐に迎え入れ等しく愛する。
等しく愛されている内の一人。そうだったはずが、どこで、いつのまに変わってしまったのだろう。相手の変化のきっかけは分からないが、それに桜備が気がついた瞬間は覚えている。
浅草上空に現れた巨大な鳥を総出で退治し、そのままソイツを丸焼きにして宴会に興じた夜のことだった。時間も遅くなり、次の日早朝から予定が入っていた桜備は頃合いを見て中座しようと腰を上げた。それを引き留めようと、グイ、と緩いズボンの裾を引っ張っていたのは紅丸の手だった。
「まだいいだろ」
スクワットのような中途半端な体勢で固まった桜備の顔を見上げる。それまでは酒が入ってニコニコと笑っていたはずが真顔に戻り、瞼に隠れていた左右非対称な瞳が開いている。眉根にはシワがより、まさか怒っているのかと心配になる表情だったが、酔っているのは間違いないようで、赤く染まった頬が怒るというよりは拗ねた子供じみたかわいらさに和らげていた。
「明日、朝早いんでこれ以上はちょっと……」
紅丸は酒の席に限界ギリギリまで留まる方だし、宴会には人が多ければ多いほど良いと思っているタイプではあるが、他人に無理強いすることはない。というより、誰がいつ来ていつ帰ったのかなど把握していない。だから、この時の対応は桜備にとってかなり予想外だった。
「いやだ」
振り払いたくても振り払えないくらい本気の力で掴まれた裾を、一体どうやって引き剥がしたのかはよく覚えていない。今になって思う。あの時引き留めに応じて帰らないのが正しい選択だったかもしれない。手に入らなかった経験が余計に欲を燃え上がらせるのはよくあることだ。
あの一件以来、紅丸の態度や視線に欲の混じった色を感じる瞬間が増えた。若さとは恐ろしい。ギラギラと光る欲の刀を大人しく鞘に仕舞っておくなどできないのだろう。
気づいていない振りでやり過ごせればそれはそれで。そう考えてのらくらしていたところで、今日の紺炉の様子伺いは耳が痛かった。とはいえ、紅丸の変化を察せれるとすれば彼しかいない。真っ先に気づくだろう人物に気づかれただけ。まだ状況は深刻ではないのだ。なにか問題があるとすれば――
「俺、喜んじゃってんだよなぁ……大人としてどうなんだ?」
うんうんと悩みながらも、耳は扉の外のざわめきに注意を向いていた。さっき部屋を出た紺炉と、恐らく火縄が、さっきから何やら話している。内容までは聞き取れないが、言葉が途切れ遠ざかる足音が聞こえて、会話の終わりを察する。パン、と両頬を手の平で打ち付け気合いを入れる。
自らの動揺を悟られるようなことだけは避けなくては。そう気合いを入れ、予想通りのタイミングで鳴った火縄特有の固く鋭いノックの音に、どうぞ、と大きな声で返した。
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