ツキハヒガシニ

    

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桜を彫りたい紅丸の話3


 弔い酒の宴席も佳境に入る中、一刻前にさりげなく席を外した紅丸を目の端で捉えていた紺炉は、後を追って縁側に出た。ほどなく、ひとけのない部屋の襖に背中を預けて夜風を浴びている男の影を見つけた。話すなら今がいいか。ちょうどよく生まれた機会を生かそうと、隣に腰かけ、彫師の熊五郎から聞かされた話を切り出した。
「墨ィ? ああ、そんな話もしたかもな。なんだ、手前は入れてんのに俺がすんのは反対か?」
「別に構いやしねえよ。ただ、情人の名前から取ってくるなんてのはバツが悪い。大抵の奴は、後々関係が変わった時に後悔してるぜ。まあ酒の席での笑い話にはなるが……」
「じょっ…! 紺炉、おめえ馬鹿言ってんじゃねェよ! 誰の何の話だ?!」
 滔々と説き伏せる紺炉の言葉を聞きながら肩を震わせていた紅丸が、遂に耐えかね声を荒げて遮る。赤くなった顔からは、動揺のせいか酔った時に見せる笑顔も消えていた。
「え? 違うのか?」
「違ェ。一体どういう勘違いだそりゃ」
「いやだって、紅……」
 はぐらかされているのか、と一旦は思うも、新門紅丸はそんな器用な真似ができる男ではないと思い直す。そうなると、動揺するのは紺炉の方だった。
「じゃあなんだ、頻繁に顔見せるし、二人で若の部屋にしけ込むだろ。あれはなんだ」
「しけ込むたぁ、人聞きが悪ィ。酒飲んで話してるだけだ。ここに客人が多いのは昔っからだろ」
 紅丸の言い訳染みた返答も、引き下がる理由にはならなかった。追い詰めて良いものなら言いたい。じゃあなんだ、あの男に対しての馴れた野良猫のような態度はなんだ。無茶も諾々と受け入れる柄にもない寛容さはなんだ。今日の昼間に見せた、あの惚けた顔はなんだ。そもそも、俺は誰のことともはっきり言っていないのに、当然の心当たりがあるかのように話を進めているのはなんでだ。
 詰問する材料ならある。だが、今ここで追い詰めても益は無い。本人に自覚がないのならなおのこと。
「悪いな、俺の勘違いだ」
「えらい早とちりだな。そもそも墨彫ろうってのも、風呂屋で熊と一緒んなったから訊いてみただけだ。本気で入れるつもりはねェよ」
「……なら最後にいっこだけ。なんで桜だ。そんなに好きだったか?桜」
「酒を飲む理由になるからな。自分の腕で花見酒なんてのも悪くねェだろ」
 傍らに置いていた盃を手に取り、口へと運ぶ。その顔には、いつも通りの愉快な笑みが戻ってきている。
 俺にもくれ、と横から飲みかけの盃を奪い取り、残りを一気に煽る。喉、次いで胃がかっと熱くなり、頭の裏、襟足辺りがジンと柔らかく痺れる。うまい酒だ。文句を垂れる紅丸に盃を返してから、はあ、と酒臭くなった息を吐き、目の前の薄暗闇に目を向けた。縁側から見える屋敷の庭の隅には、まだ蕾もついていない桜の巨木が生えている。障子の漏れ明かりに照らされる裸の太い幹の影は、どこかあの男に似ていた。

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