三々久遠
一
世界を創り直したからといって、その世界で生きる人間の意思まで操れるわけじゃない。特に、自分が誰に好かれるか、誰を好きになるかなんていう感情の面は、むしろ前より不可解になった。
「はぁ~あ、シンラが無駄にモテるせいで俺らまでとばっちりだよ」
「悪……くはねェよ。俺だって、別にモテたくてモテてるわけじゃないから」
再三繰り返されてきた要求を今回も俺が撥ねつけた後、インカはいつも通りその場から姿をくらました。後に残されたモンスターは「本当に俺のこと好きなのか?」と疑いたくなるくらいには狂暴凶悪で、俺たちは文字通りに命からがらの討伐戦を終えたばかりだ。
母親しかり、女性に振り回される人生なのは前の世から続く定めなのかもしれない。だからって、オグンに愚痴られるほどの責任は俺には無いだろ。
先遣隊として送られたそのまま前線を任され奮闘したアーサー含む俺ら三人(とエクスカリバー)は、地べたに座り込んで水分を補給しながら、疲れたー疲れたー、と緊張感から解き放たれた反動で中身のない文句を吐きながら休んでいた。
少ししてようやく息が整ってきた頃、オグンが「そういえば」と遅れて合流した陣営の方をチラリと横目で示した。
「あっちこっちでくっつきすぎっていえば、あの人らもだよな」
「え? なにそれ、誰の話?」
オグンの意図が分からない俺は、素直に訊き返した。視線を辿っていった二十メートルほど先には、情報端末を持ったヴァルカンを囲んで立つ桜備総隊長、火縄副指令、新門総指揮、紺炉総指揮補佐の、合わせて5人の姿があった。中には決まったパートナーがいる人間も含まれているが、そこら辺はあえて含みを持たせるような話題じゃない。
「だーかーら、総隊長と総指揮。あの二人付き合ってんだろ」
完全に油断していた。
訊き返しながら水筒に口をつけていた俺は、オグンの予想外の答えに驚き、口の中に含んでいた分の水を一気に噴き出した。ついでに気管にも水が入ってしまい全身でせき込んでいると、隣にいたアーサーが眉をひそめ俺との間の距離を広げた。
「おいシンラ、汚いぞ。水くらい溢さずに飲め」
「だっ、て、おいオグン、それ冗談だとしてもさすがに笑えねえって」
「冗談じゃなくて、マジのマジ。それに、俺よりもアーサーの方が先に気づいてたぜ。地球に帰ってきてすぐ言ってなかったか? なぁ、アーサー」
「ああ。見れば分かるだろ」
「こいつの言うことは信用できねェ。なに、なんか証拠あんのかよ。ただの噂話だったら承知しねェぞ」
「いやいや、なんでシンラがそんなキレてんの? 普通にこえーんだけど……。うーん、証拠ってもなぁ…………あ! 俺この前ふたりがキスしてんの見かけたわ。たまたまだけど、野営のテント裏で」
「動かぬ証拠すぎんだろォ?!」
どうか何もあってくれるな、むしろただの噂話であれ、という祈りも通じずにさっさと出てきたオグンの証言に、俺は手にしていた水筒を潰しながら頭を抱えた。
「……わけ分かんねえ。なにがどうなってそうなってんだよ」
「さぁ…俺も詳しくは知らないけど。でも、この世界がどうなるかわからねェのに悩む時間がもったいねェってさっきシンラが自分で言ってたじゃんか。そういうことだろ?」
「いや、悩むだろそこは!!」
前言撤回は男らしくないと分かりつつも、反射的にオグンの言葉に噛みついてしまった。オグンは俺のリアクションのデカさに体をのけ反らせて引いている。
脳内が混乱してパンクしそうなのが自分でも分かった。ずしりと重たくなった頭を下げてう~んと唸りながら、恐る恐る、さっきオグンが見ていた方に目をやる。それでも直視こそできなくて、視線はフラフラと“その辺り“をさ迷った。
見るからに他の人の話を聞いていそうにない、どこか遠くを見ている新門総指揮の横顔。その左隣にいる桜備総隊長は、俺たちの居る位置からだと背中しか見えなかった。
ずっと見てきた背中。背負うものが<8>から<DEATH>に変わっても出会った時からまったく変わらない、広くて大きい、憧れの背中だ。
「新門“大隊長”!」
意識より先に体が動いていた。発火能力を失った今でも、俺の体はラピッドのスピードを覚えているらしい。ここぞという時の高い集中力が必要だけど、筋肉の力だけでそれなりに速く動ける。脳も、脚も。
動いた切欠は、遠く視線の先で新門総指揮の手が桜備総隊長の肩に触れるのが見えた時だ。多分。正直自分でも分からない。とにかく、その光景が目に入った次の瞬間には俺の体は二人の間に割り込んでいた。
「……あァ?」
俺が突然現れたのもそうだけど、割り込むと同時に叫んだ名前を聞いて、その場にいた全員がなにやら違和感を覚えた顔をしていた。今は使われなくなった、でも口に馴染んだ新門総指揮のかつての呼び名が出てきたのも無意識だった。
「桜備総隊長と! お付き合いされてるって本当ですか?!!」
俺が白目を剝いて荒野の果てまで響く声量で叫んだ質問に、一旦辺りがサーッと静まり返る。それからまず、チッ、と舌打ちが返ってきた。
「……だったらなんだってんだ」
低い声でそう言った新門総指揮は、イラついてる顔でこっちを見ながら、俺に弾き飛ばされた右手の甲を摩っている。隙を突かれたのが気にくわないんだろう。俺からしても、意図的ではないとは言え一撃入れられたのはほとんど奇跡に近い。この人は発火能力が無くなった世界でも最強の名をほしいままにしていて、能力のハンデが無くなった今でも実力差はほとんど変わっていない。にも関わらず、なんで俺は現在進行形で余計な喧嘩を売ってるんだ?
「どうして、俺に教えてくれなかったんですか」
「どうしたもこうしたも、言う必要がねェからなァ。知ったらどうだってんだよ」
「そ、そもそも、なんでですか? お二人共、普通に女の人好きでしたよね?」
「べつに理由なんてねェよ。俺が惚れた時にはまだ売れ残ってたんだ。手ェ出して何が悪い」
「売れ残りって……じゃあ、総隊長のこと本気で好きってことですか?」
俺がそう質問を重ねると、新門総指揮は顔の左半分だけを歪めて形相を変え、腰の刀を鞘ごと外して右手に持ち替えた。上半身の力が抜けて体が斜めに傾ぐ。どのタイミングでも瞬時に間合いを詰めてこられそうな、嫌な緊張感が漂い始めた。
「お前ェ、馬に蹴られて死にてェのか? 他人の喧嘩とこういうことには、いちいち首突っ込んでくるもんじゃ――……ねェだろ」
先手必勝、と、稽古の癖もあってつい相手が喋っている最中に脚が出た。が、もちろんそのまま決まるわけもなく、最小限の動きだけで俺の回し蹴りはかわされた。
「新門総指揮のことは心から尊敬してます。けど! 正直コレに関しては全然信用できないです!」
「あァ? 希代のすけこましが何言ってやがる。女のケツ追っかけてフラフラフラフラしてる奴に文句言われる筋合いねェだろうが」
「なっ、そそ、そうですけど! それとこれとは別問題なんで!」
淡々とした口撃と共に、ガンッガンッガンッ、と軽くはない勢いで右左からリズミカルに叩きつけられる鞘を、勢いに押されて徐々に後退しながらも辛うじていなす。危険を察知したのか、すでに俺たちの周囲に人は誰も居なくなっていて、一部の人は遠巻きにこっちを眺めていた。紺炉さんだけが、他よりもやや近い位置で心配そうな顔をしている。
「とにかく、俺はっ……俺は認めてませんから!」
「だから言ってんだろ。てめェに認めてもらう必要はこれっぽっちもねェ。何様だオイ? ちっと神様んなったからって調子乗ってんじゃねェぞオラ」
「何回も説明してますけど、おれは、神様じゃないんですって!」
「じゃあとっととくたばって仏になれや」
ガンッ!とそれまでよりも強い力でぶつけられた鞘を右腕で受けるのと同時に、空いた脇腹を蹴られて吹っ飛ばされる。それでも咄嗟に受け身をとる程度の余裕はあった。すぐに体勢を立て直し、両手を前に出して構え直した。
「前に自分で言ってたじゃないですか。意思は戦って証明するもんだって。だったら、俺のことぶっ飛ばして認めさせてくださいよ」
キッと眉間に力を込めて新門総指揮を見据えていても、内心では、なんでそんな啖呵を切ってしまったのか、この瞬間になっても俺は自分の心情をよく理解できていなかった。混乱と動揺に突き動かされた、ただの勢いだ。でも、撤回するにはもう遅すぎた。
「……喧嘩売ってきたのはそっちだ。腕の一本くらい叩き落とされてもわめくなよ」
そう言うや、総指揮は手にしていた刀を投げ捨て、肩に引っ掛けていた羽織も脱ぎ去った。顔の前に見慣れた型で手刀を構えたその瞬間、呼吸の仕方も変わるのを感じた。命の呼吸だ。いや、命の呼吸を超えて一気に重量級の死の圧を感じる。冷や汗がドッと噴出して、口角が引きつっていく。ついさっきインカの巨大モンスターと対峙したよりもよっぽど激しく、本能が身の危険を訴えていた。
「おいシンラ」
「……はい」
落ち着いた声色で呼びかけられ、乾いた喉に張り付きそうになる声をなんとか絞り出して返事をした。
「言っておくが、どれくらい本気なのか証明しろってんなら、お前を百万遍殺したところで足りねェからな。覚悟しろ……いや、後悔して死ね」
「……こういう時に言うセリフ教えましょうか?」
「ううん、別にいいよ」
「『お願い!私のために争わないで!』――ですよ」
別にいいって言ってんのにさぁ、と火縄の進言をため息で流してから、桜備は腕を組んだままゆっくりと天を仰いだ。空が青い。荒野に響く罵声も高く吸い込まれていく。この空が、そして世界全体が黒い炎に包まれた瞬間を、直前に絶命した桜備は知らない。自分の死が世界崩壊のトリガーになったという顛末を知ったのは再生した後になってだ。
「なんか平和って感じするなぁ」
空に向かって呟いた桜備の独り言に、火縄が「まったくです」とこの男にしては珍しい、かすかに笑いを含んだ明るい声で応えた。
夜間話 一
慣れない土地での夜間移動は危険が多い。シンラ発の予期せぬハプニングで足を止めた一隊は、結局日程の繰り上げはかなわずに当初の予定通り野営地で一晩とどまることになった。
「昼間の件、なんだかんだ楽しんでましたよね」
横倒しになった木に腰掛けた桜備は、焚き火のすぐ前にしゃがみこむ紅丸の横顔に向かってそう声をかけた。
迦具土神とまで称された男は、人体発火現象が収まった世でも炎に愛され続けている。今も、火の粉が肌にふりかかりそうな距離で平然としているし、手のひらをかざされた焚き火の火は常時よりも勢いよく燃え、まるで踊っているように見えた。
桜備の問いかけに紅丸は少し間を置いてから、まあな、と口角を軽く上げた。
「はじめて第七に押しかけてきた時を思い出した。シンラもあん時は威勢が良かったのに、妙に懐かれちまっておもしろくなかったからな」
「だからって、せっかく負傷者ゼロで済みそうだったのに一人増やしてくれちゃって……」
「あいつが弱いのが悪い」
きっぱりと言い切った紅丸に対して、桜備もそれ以上文句を言う気は無かった。代わりに昼間の妙に真剣なシンラの顔を思い出しながら目線を遠くに投げ、眉尻を下げた情けない顔で長いため息と独り言を吐く。
「しかし、シンラもなんかゴチャゴチャ言ってたけど、まあ、一番最初のが一番言いたかったことなんだろうなァ……。なんで教えてくれなかったのか、か。普通上官のプライベートな事情なんて知りたくないと思うんだけど。隠しごとされてたって思ったんなら、悪いことしたな」
「そいつは本人に聞くしかねェだろ」
あっさりとした相槌と共に立ち上がった紅丸は、大股で桜備のところまで歩み寄ってくると、目の前に仁王立ちし、おもむろに右手を持ち上げた。
伸ばされた手は、桜備の頬と耳たぶを掠めて首の裏に到達した。うなじを包み込み、剃りあげられた髪の毛のきわを確かめるように親指がゆっくりと動く。炎にかざしていた手のひらは、触れられた瞬間に分かるくらいに熱を帯びていた。その熱が伝播するように、桜備の顔にも熱が溜まってくる。炎の揺らめきを反射して滲んだ赤い目が視界を埋めるくらいの距離にまで近づいてきたところで、そっと目を閉じた。
会話が途切れて生まれた静寂のなか、パチパチと薪が爆ぜる音が響く。角度を変えながら数度触れて離れてを繰り返したものの、紅丸の舌は薄く開かれた桜備の唇の間には入らず、下唇を横にひとなめだけすると顔ごと離れていった。それに気づいた桜備は、閉じていた目蓋を開いて素早く瞬きを繰り返しながら、拍子抜けした声をあげた。
「え? しないんですか?」
「ダメだ。犬っころの顔が浮かんで気が削がれる……」
上の方へと視線を向けうんざりとした顔でそうぼやくと、ふいっと身を翻し、焚き火の傍へと戻っていく。その長い着物の裾を、桜備の手が慌てて掴み引き留めた。
「ちょっ、それはないでしょ」
「あァ?」
「いや、だって、昼間のアレは煽られましたよ、さすがに。別に疑ってたわけじゃないけど、本気で好かれ…や、その…あいされてる自信もないもんで」
着物を掴んでいない方の手で口元を押さえゴニョゴニョと申し立てる伏し目がちな桜備の顔は、炎に照らされているせいだけではなく不自然に赤くなっていた。訴えている内容の気恥ずかしさのせいか、眉間には皺がよっている。振り返った体勢のまま見下ろし黙って聞いていた紅丸は、おもむろに右手を動かすと、その眉間の皺辺りを狙って指を弾いた。
っだ!と、デコピンの痛みに桜備が声をあげ手を離す。自由になった着物の裾を捌いて振り返った紅丸は、桜備の短い前髪を掴んで無理矢理上を向かせた。強引な動作に、桜備もさすがに顔をしかめたが文句は言わなかった。
「聞き捨てならねェな。クソガキの件もそれが原因だろ。てめェが自信満々で愛されてれば、誰も文句なんか言わねェんだよ」
「さぁ~……どうでしょう」
「俺が人に指図されるのが死ぬほど嫌いなのは知ってるな?」
紅丸の唐突な質問に、冷や汗をかいて頬を引きつらせている桜備は、無言で、掴まれた状態でも可能な範囲で縦に首を振った。
「唯一てめェだけだ、俺に上から物申していいのは。だから……なにをどうして欲しいのか、一から十まで全部言えばその通りにしてやるよ、総隊長殿」
そう言って、長い前髪の下の目を細めてニマリと笑う。先にねだったのは桜備の方なのに、やっぱりもういい、などとは今さら言い出せない空気になっていた。
二
「アーサーが言うには『救出イベントをクリアしてるんだから当然の結果』だって。なんだよそれ。そもそもあの時助けにいったの俺たちが先じゃんか」
歩行者天国の賑やかな通りに面したオープンカフェ。パラソルの影の下で、透明なグラスに入ったアイスコーヒーを啜った後にストローを噛む。丸いテーブルを挟んだ向かいの席で、俺のぼやきを聞いたアイリスが不思議そうに首を傾げた。
「でも、シンラさんは本当に気づいてなかったんですか? ちっとも?」
「それは――」
アイリスの指摘は鋭く、俺の後ろめたさを的確に刺した。
実のところ、明言こそしないまでも隠す気もさほど無かったのだろう二人の行動には、オグンに聞かされる以前から俺も引っかかっていた。総隊長は帰る機会のそう多くない自宅を更新のタイミングで浅草の方に移したし、滅多なことでは浅草から外に出たがらなかった新門総指揮を本部でちょくちょく見かけるようになっていたし。あとは、部下相手にでも割と丁寧に接する総隊長が指先だけで指揮官を呼びよせたり、総隊長が若い隊員に囲まれてる時の指揮官の顔がやたら不機嫌そうだったり。
思い当たる節を脳内で並べてみると、それなりにある。やっぱり、気づいてなかったというよりは……
「気づかないふりしてた……の方が正しいかも知れないですね」
「正直、私は紅丸さんのことあまり良く知らないんです。前の世界の時もシスターの身では浅草に行きづらくて、あまりお話しする機会も無かったですし。でも、シンラさんやアーサーさん、タマキさんからお話を聞いてると、それだけでいい人だって分かりますよ」
「もちろん、俺にとってはどっちも大好きで憧れの存在なのは間違いないんですけど。あまりに意外というか……」
「私も、桜備さんは姉さんみたいに強くてきれいな女の人と結婚するのかなーって勝手に想像したりしたことはあります。でも、それも勝手な想像ですもんね」
「そうですね……意外ではあるけど、他人がどうこういうことじゃないっていうのは分かります」
「じゃあ~……あっ、女性関係にだらしないとか? 人気メンさんですし、原国は一夫多妻制もわりとふつうだったって聞いたことがありますけど」
「いや、それも別に……」
新門総指揮は、酒とギャンブルに関しては懸念点しかないものの、女性関係については意外なほどに身ぎれいだ。悪い噂を聞いたことがない反面、色っぽい噂も耳にしたことがない。とはいえタマキのスケベられも動じないまでもちゃんと見てはいたし、酒の席での猥談にケラケラ笑いながら乗っている姿も見たことがある。それでも、性格的にさして強い興味は無いのだと勝手に思っていた。
こうして誰かと話していると、ますます分からなくなってきた。分からない、もう何が分からないのかが分からない状態だ。
「そんなに気にしなくていいんじゃないですか? 一時の気の迷いで、すぐに別れるかも知れないし」
うーんと悩んでいるところに彼女の口からにしては意外な内容が出てきて、俺は動揺を隠そうとアイスコーヒーのグラスを大げさな動作でテーブルに戻した。
「でっ、も、責任が生まれるもんじゃないですか。付き合うってなったら」
「そうでしょうか? シンラさんが死を軽くしてくれたこの世界では、愛だってもっと自由になって良いんじゃないですか?」
アイリスが細い首を後ろに逸らし、頭上を見上げる。つい真似して首を曲げると、ビニール製の白いパラソルの無骨な骨組みが見えた。初夏の日差しは、目を射すほどではないがパラソル越しでもはっきりと感じられるくらい強い。
「太陽と同じで、永遠に続くものなんてない。シンラさんと私だって、10年先、20年先まで一緒にいるかは分かりません。これから先、もっと好きになったり、やっぱり嫌いになったり……別の人を好きになったりするかも」
「そんなの、ありえないですよ?!」
アイリスが最後に少し声をひそめて付け足した言葉を、俺は思わず椅子から立ち上がる勢いで否定した。
「ある“かも”っていう話です。でも、信じていたものがたとえ嘘だったとしても、それまでの自分が否定されるわけじゃない。そのことを教えてくれたのもシンラさんじゃないですか」
「まぁ……そんなもんですかね」
好きな女の子に「いつか嫌いになるかも」なんて言われるのはそれなりに堪える。でも、アイリスの場合は嫌味のつもりなんてこれっぽっちもなくて、思ったことを本当にそのまま言っているだけだと分かるからまだ受け止められた。
いや、そもそもだ。インカの話題よりはマシかと思ったけど、こんな話を聞かせられて気を悪くしていないだろうか。二人こうして顔を突き合わせて喋るのも随分久しぶりだ。にも関わらず俺はほぼほぼアイリスとは無関係な他人の恋愛話を続けている。俺が彼女の立場だったらぶちギレてる――と思ったけど。
「……アイリス、なんか嬉しそう? じゃない?」
俺の指摘に驚いたアイリスは、ハッと小さな口を丸く開き、手の平で押さえた。
「あれ? 私ってやっぱり分かりやすいですか? そうなんです。これまでは私の悩みをシンラさんに聞いてもらってばっかりだったから、こうして相談してくれるのが嬉しくて」
「悩みってほどのことでも……」
今更になって、悩み相談の内容が男としてあまりにも情けない気がしてきた。でも同時に、聖女然とした彼女の笑顔を見ていて、ふと思いついたことがあった。
「……前に、フォイェンさんが言ってたんです。信じるモノがないと人は崩れてしまう、って。大隊長も総指揮もみんなに信じられる側の存在で、それが当たり前に思ってたけど……でもじゃあ、お二人は何を信じたらいいんだろうって……」
もごもごとまとまらない考えを喋る俺を見て、アイリスが小首を傾げた。
「もしかして、がんばって受け入れようとしてますか?」
「まあ、そりゃ……ガキみたいな駄々こねてもしょうがないし」
「……シンラさんは、やっぱり優しいですね」
大好きです。と、アイスティーのストローを指先でつまんで、ニコ、と音が聞こえてきそうな丸みを帯びた笑顔を浮かべる。
たとえシスターじゃなくなっても、彼女が自分にとって向日葵のような存在であることに変わりはない。光の方を見ているんじゃなくて、彼女の見ている先に光が生まれるのだ。
そう思える相手がいるって、すごく幸せなことなのかも知れない。
アイリスの風にそよぐ綺麗な前髪を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
桜備総隊長が朝からずっと露骨に俺を見ている。遠征先でのアレについて話をしたいんだろうと勘づいてしまうと、俺の方からは声を掛け辛い。気づいていない振りをしつつ、部屋の入口の陰でウロウロしている巨体をチラチラ横目で確認するだけに留めていた。すると、その更に後ろから火縄副指令の姿が現れたのも見えて、俺はつい慌ててしまった。
ああっ、ほら、後ろから火縄副指令が来てますよ。またサボってるって怒られる――
が、俺の心配とは裏腹に、火縄副指令は総隊長に背後から話しかけて一言二言だけ会話をすると、すぐに俺のデスクの方へと真っ直ぐに歩いてきた。
「シンラ。お前キャッチボールはできるか?」
「は?」
思った通り、火縄副指令のボールコントロールは完璧だった。俺が一切動かずとも倉庫から引っ張り出してきた使い古しのミットに球が自然と吸い込まれていくのを見て、素直に感動した。
「なんだ、普通にうまいじゃないか」
俺が投げ返したボールを数回受けたところで、副指令が感心した様子でそう言った。
「まぁ、ベースボールは俺らが子供の時はあんま流行ってなかったけど、学校の授業とかで一通りやらされたんで。それより、火縄副指令がキャッチボールする方が意外ですよ」
ボールを投げながら会話を続ける。間に10mくらいの距離はあるが、騒々しい現場でも通るような明瞭な声の出し方はお互いに心得ている。
「20年以上ぶりだ。幼い頃に父親と休みの日によくキャッチボールをしていたんだが、久しぶりでも意外とできるもんだな」
「へぇ。でも、副指令のこども時代か……」
想像して、つい頬が緩む。イメージ的には再会した頃のショウに似ていて、それでやっぱり眼鏡だし、どちらかというと家の中とか図書館にいそうで、友達と公園で遊んでる姿はあまり想像できない。
「父は、俺に似て不器用な人間だった。親子のコミュニケーションの仕方も、教科書で学ぶかのように有り体の型を試すしかなかったんだろう」
公園で父親とキャッチボールか。母さんは寂しさなんて感じさせないくらい愛してくれたけど、憧れないのはやっぱり無理だった。そういえば、まだ赤ん坊だったショウに「大きくなったら一緒にキャッチボールしような」と話しかけたこともあったような。
「……でも、それだけ副指令のお父さんも頑張ってくれてたってことですよね」
「まあな。正直ウザったいと思うこともあったが、今なら父の苦労もよく分かる。……あの頃の父の年齢は、もうとうに追い越してるんだ」
副指令の投げたボールの軌道が、中心からわずかにズレた。頭より先に、目と手がそれを追う。すかさず腕を伸ばして捕球し元の位置に戻ると、副指令が「休憩しよう」とグローブを外しながら俺の方へと歩み寄ってきていた。そのまま傍にあるベンチに二人並んで座り一息つくと、すぐに話の続きが始まった。
「俺の家は父子家庭だったんだ。男手一つで育ててくれた父も俺が第8に入隊する直前に病気で亡くなった。それでいつだったか……俺が高校生になったばかりくらいの時に、父の再婚話が持ち上がったことがあった。職場の上司からの紹介で、なかば見合いのようなものだったらしい」
「ショックでしたか?」
「どうだろうな。ショックだったのかも知れん。態度に出していたつもりはないが、しばらくして破談になった結末を思えば、父本人には動揺がバレていたんだろうな」
そこで言葉を切ると、被っていたキャップを外し脇に置いた。汗で湿った髪を指で軽くほどく動作の後、後頭部に手を置いたまま数秒停止してから、また口を開く。
「俺も一度だけ顔を合わせたが、聡明そうで綺麗な女性だった。彼女と再婚していれば、あるいは父の余生ももっと幸せだったのか……」
語尾を濁したまま眼鏡を指で押し上げた火縄副指令の横顔を見る。相変わらず表情筋はピクリとも動いていなかったが、茶色い瞳は少しだけ揺れていた。
「あの……桜備総隊長に頼まれたんですよね? 俺と話してくれって」
「ああ。というより、俺が代わりに話を聞いても構わないかと進言したんだ。シンラと話すにしても俺の方がまだマシだと思ってな」
「マシ?」
「無論、まだマシ、という程度の差ではあるがな。相談に乗っておいてなんだが、他人の感情の機微に疎い自覚はあるんだ」
「そんなことないですよ。火縄副司令は人の気持ちに寄り添える人だ。そもそも、そうじゃなきゃ第8になんて入らないでしょ」
「なんて、か。違いないな」
フッ、と、口元にささやかな笑みが浮かぶ。今日初めてかもしれない火縄副指令の笑顔だった。
思えば、火縄副指令から家族の話を聞くのは初めてだ。こんなカードまで切らせてしまった原因が自分にあると思うと、罪悪感で胸が痛い。
「実は、ちょっとモヤモヤしてることがあって。聞いてもらってもいいですか?」
「……相手が俺で構わないなら」
「俺、この前あのお二人の関係を知って……はじめてインカの気持ちが分かっちゃったんです」
これは、この前アイリスに会った時にはすでに思っていたことだけど、到底彼女に相談できる内容じゃなかったから黙っていた。誰かに言うこともないだろうと思っていたその考えは、いざ口に出してみると余計に嫌な気分になった。
「アイツが言う「この星を救った英雄の子供が欲しい」ってワガママ……俺も似たようなこと考えてたのかも知れないって」
「…………インカに桜備総隊長の子どもを産んで欲しいのか?」
「いや! 違いますよ! なんでそうなるんですか?! つーかそれは絶対に嫌です!!! ……そうじゃなくて、相手は誰でも…インカじゃなきゃ誰でもいいんですけどね。ただ、女性と結婚して子ども産んでって、普通にそうなるもんだと思ってたから、そうならないのかって思ったら……おれが一番ショック受けてるの“ソコ”なのかもなって。桜備総隊長もですけど、新門総指揮も……」
「優秀な遺伝子を後世に残したいと考えるのは、動物としては自然な思考回路とも言えないか」
「だとしても、こんなの人類の未来なんて関係ない、俺の個人的なエゴですよ。子供を産んで欲しかっただなんて」
俺がぐしゃぐしゃと両手で頭を掻きながら下を向く一方、火縄副指令はスッと顎を持ちあげ、視線を上に向けた。俺もつられて顔を上げる。今いる裏庭のベンチから見て丁度目の先にあるのは、英雄隊本部であり元第8特殊消防教会の一番高い鉄塔、の裏側だ。
「……「あなたはこの城の王であり隊の父にもなる」。第8を結成して間もない、まだ“桜備大隊長”だった頃に、そう話をしたことがある。しかし、今思えば不思議なんだ。なぜあの時に彼を“父”と言ったのか。父親を失ったばかりの自分が、感傷や希望の甘さに浸り二人の面影を重ねたのか。心のどこかにあった家族を求める思いがつい口を出たのか……」
「でも、俺も総隊長に対して思ったことありますよ。父親がいたらこんな感じかなーとか」
「だが、そもそも俺の父はどちらかと言えば気弱なタイプで、優しくはあってもリーダーシップや大黒柱という言葉とは無縁だった。だから、自分の親に重ねたというよりは、何にも関係なく、ただあの人に“そう思わされた”んだろうな」
「人類の父か…」
西に傾きつつある太陽の光を反射し輝く鉄塔を眺めながら、頭に浮かんだ言葉をポツリと呟いてみた。それはあまりにも正しい呼称で、だからこそ虚しく空回りしている響きがあった。
「今の話だが、どうせなら直接伝えてみるといい。あの二人のことだ。すでに、よほど簡単な解決策を考えているかも知れない」
「え~……ご本人たちにですか? それはさすがに……」
「救って欲しい。救われて欲しい。こうあってほしい――そういう身勝手なエゴを受けとめられるのもひとつの強さだ」
副指令は及び腰になっている俺をハキハキとした口調でそう諭すと、キャップを被り直して「続きをやるか」とベンチを立った。相談の口実と思いきや意外と楽しんでいたらしいと分かった俺は「次、カーブ投げていいですか?」と聞きながら腰を浮かせ、かけ足で後を追った。
夜間話 二
事が始まってから終わるまで、焚火の炎は二人の熱の盛り上がりに寄り添うように明々と燃え続けていた。その炎の前に座り怠い表情でゆっくりと着衣を直す桜備の横で、紅丸は一応話が済むまではとさっきは我慢していたらしい酒を手にさっさと一人破顔している。
「しかし、途中で誰も来なくてよかったですね」
炎を見つめながら投げやりに言った桜備のその言葉は皮肉だった。が、皮肉を言った相手には伝わらない。
「さすがに、今日の今日で出歯亀するやつぁいねェだろ」
そう言った紅丸は、最後にくく、と喉を鳴らし上機嫌に笑う。欲と本能に任せているようでそれなりに計算高く物事を考えているところが、聞いていた桜備の癇に触った。つい、不満を明け透けにした低い声で文句のひとつもいいたくなる。
「そもそも、こっちの言うことなんでも聞くって約束も守ってないですよね」
「あぁ? ちゃんと守っただろうが」
すかさず否定が返ってくるが、桜備の方に聞く耳はなかった。少なくとも2つ、せめてテントまで移動したいと言ったはずが最後まで野外で片付き、挿れるなら避妊具をつけろという要望も黙殺された。その他、言った以上のこともされたし、言ってないこともされた。
「文句あんなら言ってみろよ。それとも、他に何かお望みだってんなら聞くぜ?」
半眼で睨む桜備に、紅丸が前髪をかきあげ目線を返しながら挑発的な物言いをぶつける。少しの無言の間を埋めるように、焚火がパチパチと木の爆ぜる音を奏でていた。
「じゃあ………………結婚してくださいよ」
長い間を置いた後、桜備は火の燃える音にギリギリかき消されないくらいの声量で呟いた。その要望を聞いて一瞬で酔いが醒めたのか、紅丸の顔が笑顔から真顔に戻る。
「なんだって?」
「結婚。法的な契約婚。半分はもう、シンラのためですけど。手っ取り早いじゃないですか。喧嘩するよか本気度も伝わるし」
「お前ェ、ヤクザもんの、しかも頭との結婚がどんだけ面倒か考えたことねェだろ」
今の世においては浅草界隈も言うほどヤクザ者ではないのだが、その辺りは立場というよりは思想の問題なので口を挟むべきではないと桜備も心得ていた。代わりに別の反論を、相手の睨みを凌駕する勢いで返す。
「どう考えても、このままズルズル続ける方がめんどくさいでしょうが!」
「なっ……こっちの気も知らねェで…そもそも、半分シンラのためってのがどういう了見だよ」
「シンラに限らず、いつも説明に困るんですよ! いい歳した大人が中途半端な関係ダラダラ続けてるの、嫌にもなるっての!」
「それだって、この先てめェが色々とやりにくくならないためだろうがっ!」
言葉の勢いに合わせて反射的に首元に伸びてきた紅丸の手を躱して払いのけた桜備は、カウンターで突き出した拳で相手の胸倉を掴み、自分の方へと引き寄せた。額同士がぶつかる直前で止め、互いの眉間の皺を突き合わせ、瞳孔の開いた赤い目と睨み合う。
「へ~、俺のため。それは初めて聞いたな。天下御免の新門紅丸にそんな殊勝な考えが生まれるとは」
「殊更お前を担ぎ上げるつもりはねェが、別に邪魔してやりたいとも思わねェからな」
「そもそも、あんたどうなったって止めるつもりも手放す気もないだろ?! こっちだってね、愛されてる自信はなくても、愛してる自信なら十分にありますから! 俺が根を上げるの待ちだって言うなら、待つ時間が無駄になりますよ。俺も、どうせこの先手放す気なんてない、ん、で……」
勢いづいてヒートアップし語気を荒げながらも、途中から相手の反応が無くなっているのに桜備も違和感を覚えていた。そして、ふと、掴んだ胸倉の上のそっぽを向いて黙りこくっている顔を見て言葉を失った。
どの言葉がクリティカルヒットしたのかは皆目見当つかないが、口元を手で隠して何も言えなくなるほどに、見えている部分の肌が炎の色以上に赤くなるほどに照れさせてしまったらしい。
桜備は、ああもう、と悔しさを噛みしめ一度天を仰いでから、胸倉を掴んでいた手を離し、その手で口元を押さえている紅丸の手を掴み退かした。それから、何か言おうと開きかけた口を黙らせるように唇を重ね、不毛な会話を終わらせた。
三
「子どもなんてのは、その辺で拾ってくりゃいいだろ。俺もそうだったんだ」
火縄副指令の助言に従い本人に伝えたところ、返ってきたのはいかにも本人らしい答えだった。これまでに出自についてくわしく聞かされたことはないが、総指揮が先代の実の子どもでないことは浅草町内では周知の事実だから、俺も耳にしている。もちろん、そのことを気にするような人もこの町にはいない。
「ジジィも紺炉もそうだが、俺ァここの連中の誰とも血はつながっちゃいない。だからと言って縁が浅いとも思わねェよ」
ここ、と言いながら顎で指し示したのは町全体のことだろうけど、俺はとりあえず目の前の見慣れた裏庭に目をやった。そういうことでもないんだけど、と言いたくても、伝わるように話せる自信もなく「はぁ」と曖昧な相槌を返す。
思えば、浅草の詰所に訪れるのは随分と久しぶりだ。それでも、裏庭の土の色を見て匂いを嗅いだだけで、全身のそこかしこに負った傷の痛みとか、アーサーの間抜けな悲鳴とか、良いとは言い難い思い出が一挙に甦ってきた。
「――オイ紺炉! さっきから手ェ抜いてんじゃねェぞ! 病人面はもう通じねェからな!」
と、今まさにその裏庭で俺が連れてきた新入隊員に稽古をつけてくれている紺炉さんに、総指揮が突然怒声を飛ばす。理不尽な罵りに対して、紺炉さんは「なんで俺が怒られにゃならんのですか」と困惑した顔で頭を掻いている。ちょっと俺と話すから、と新門総指揮から紺炉さんに指導が引き継がれて最初は喜んでいた隊員達は、遜色無い、むしろ一層厳しいしごきですでに死体と区別がつかない状態になっている。あぁ、懐かしい。懐かしさしかない。
走馬灯を見て遠い目になる俺と、身勝手に活を入れて満足したらしい新門総指揮の間に、しばらく沈黙が流れる。死にかけの隊員の呻き声と鳥のさえずりをBGMに一分ほど経ったところで、先に口を開いたのは新門総指揮の方だった。
「それで…………この前は悪かった」
俺は、まず自分の耳を疑った。今謝った?誰が?混乱のあまり、一瞬自分の目の前にいる人がどこの誰なのかが分からなくなった。
「イエ、俺の方こそ、出すぎた真似を……」
駄目だ、驚きで言葉が続かない。冷静に考えれば、俺の方からもっと早く先に謝りに来るべきとこなのに、咎めるどころか自分から謝った? これが本人だけの意思とは思えないけど……と考えていると、つい目が竹刀を振り上げている紺炉さんの方に動く。
「それで、あー……もし他にも聞きたいことがあるなら答えるが」
「え、なんでもですか?」
「ああ。ただし、くだんねェ質問だったら即たたっ切るぞ」
つい喜びに顔を綻ばせてしまった俺に、すぐ牽制が入る。じゃあそれって、なんでもいいとは言えなくないか?と疑問が浮かんだけどスルーした。さっきから新門総指揮の目線はずっと縁側の方を向いているから、俺の位置じゃ横顔しか見えないし目も合わない。どこまでが本気でどこまでが冗談か判断がつかなかった。
「そしたら、桜備総隊長の、そのー、どこが好きなんですか?」
「初っ端からくだらねェな。……しいていえば…頑丈なところか」
そりゃ、総隊長以上に頑丈な人は世界広しと言えど中々いないだろう。恋人を好きな理由としては特殊な気がするけど、嘘ではなさそうだ。まだ俺の方がまともな理由を挙げられそうな気がしてしまうけど、とりあえず俺相手に言えるのはこんなもんか。
「じゃあ……そもそも、何がきっかけでお付き合いすることになったんですか」
その質問に対して、答えよりも先に、カチャッと鯉口を切る音が響く。怯えた俺は、反射的に両腕を自分の体の前で交差させた。が、2、3秒の間を置いて再びカチャ、と音がしたと思ったら、指揮官の手元では親指が刀身を鞘に納めていた。
「……お前、桜備が泣いてるの見たことあるか?」
「え? いや、多分無い……かな?? そもそも泣いてるイメージが全然ないですね」
突然の質問に首を大きく捻り、慌てて記憶の箱を引っ掻きまわす。そもそも人が泣いてるとこ自体があんま見ないけど、特に桜備総隊長は普段から笑ったり怒ったり感情表現豊かな割に涙のイメージが全然無い。その点、冷静沈着な火縄副指令の方がまだ想像しやすい。ああ見えて、動物が死ぬ映画とか見るといいとこで涙ぐんでたりするし。
「俺も無かった」
「無かった、ってことは、見たってこと……ですか?」
「まぁな」
「えっ、なんの時ですか? なにが理由で?」
「俺が泣かせた」
「げ」
思わず、上官の言葉に対する反応としては不適切な声と表情が漏れ出てしまった。
「泣いてるとこが見てみたくて泣かせて、それを見た時に、この先俺以外に泣かされるようなことがあったらソイツを俺が殺すと決めた」
正直俺には理解しがたい感覚だが、この人が言うと妙に説得力がある。本当に殺しそうだし。
将来的に出るかもしれない被害者を哀れに思ってゲンナリとした顔をしていると、新門総指揮が右腕を持ち上げて片肌脱ぎになりながら、突然話を変えた。
「シンラ、お前もう酒呑める齢だよな?」
「まぁ、一応は……」
「お前のことを弟子だと思ったことはねェんだが、事実だけみればそうなっちまう。俺はソレが嫌なんだよ」
ほれ、と雑に渡された杯を、慌てて両手の平を差し出し受け止める。何がしたいのか、指揮官の意図を理解した俺の内心では、緊張に心臓が跳ね始めていた。かつて、杯を交わすその場にも、そこに至るまでにも居合わせた。片手に収まる小さな杯なのに、ずしりと重みを感じる。俺は縁側の外にぶら下げていた足を引き上げ、新門総指揮の方を向いて居住いを正した。
「……さっきの話だが、血の繋がりがある家族が欲しいと思ったことが、まったく無いって言ったら嘘になるな」
新門総指揮が、大きな酒瓶を膝の上に抱え、蓋を捻り開けながら言った。
「ただ、今の世じゃ大事なのは血よりも魂だろ。姿形を作るのが血だとしたら、もっと芯の部分を作ってんのが魂だ」
淡々とした調子で話しながらも動き続ける手が、両手で差し出した俺の杯にトクトクと透明な液体が注いでいく。縁側に差し込む太陽の光を反射して、黄色っぽい水面がキラキラと輝いて見える。新門総指揮が胡座をかきなおして俺の方に体を向ける。正面で向き合うと、二つの赤い目の色もハッキリと、炸裂した花火みたいに輝いて見えた。
スッとこちらに差し出された杯に、俺も手の震えを必死に押さえながら応える。
「だから、俺の血が誰にも繋がらなくても、俺の魂はお前が代わりに未来に持ってけ」
そう言って唇の片端だけ上げて微笑むと、杯に口をつけ一気に中身を煽った。俺も慌てて真似をし、陶器でできた杯に口をつけた。が、飲んでしまってから思ったけど、日本酒を飲むのは人生で初めてだ。うまいまずいの次元じゃない。それに、これはただの酒じゃなくて人類最強の男の魂の欠片が入っている。火の玉を飲まされたようなしんどさだった。それでも、言われたことに返事はしなければと喉の違和感に堪え、できるだけ真面目な顔をつくる。
「……はい。了解です」
俺の返事を聞いた新門総指揮は、なんでこうなるのか未だに謎の深い酔った時の妙な笑顔で頷いた。それから突然その場でスクッと立ち上がると、一度遠くの方に目線をやってから、頭を斜めに傾けて俺を見下ろした。
「……桜備とも、その内別の杯を交わすことになる。三献の儀は本当は神様の前でやるもんだが、生憎浅草には決まった神様がいねェからな」
「さんこん?」
「だから、そん時はお前が立ち会え。森羅……万象マン。曲がりなりにも神様なんだろ」
「いや、だから! 俺は神様じゃないって、いっってぇ!!!?」
「オラ、おしゃべりは終いだ。まさか酒だけ飲んで帰れると思ってねェだろうな?」
突然の背中への衝撃の後、頭上から明るい声色で不穏な言葉が振ってきた。縁側から蹴りでど突き落とされた俺は、手の平と頬で感じた乾いた土の感触に、過去の辛い記憶が今から上塗りされる恐怖の予感を覚えていた。
「子どもかァ! そりゃいたら楽しいだろうとは思うけど、でも欲しいからつくるってもんでもないしな」
ラーメン屋でするには不向きな話題だったか、という俺の心配も余所に、桜備総隊長はほとんど間も置かずあっけらかんとした調子でそう答えた。俺たちはカウンターの一番奥の席に横並びで座り、注文したラーメンができるのを待っている。第8時代から通っている馴染みのラーメン屋は、再創造された世界でも変わらない味で営業を続けてくれている。とは言え、2人で来るのは随分と久しぶりだ。
「今は、それこそシンラの子どもとか、そのまた子ども達が無事に暮らせるような世界をつくりたいって方が大きいかもなァ」
壁にかかったメニューを眺めながら、昼飯をどこで食べるのか悩むのと変わらないトーンで壮大な夢を口にする。自分の子どもと世界の平和、並べて比べる内容でもないと思うけど、平然と並べて考えてしまえるのがこの人のすごいところでもある。
「うーん? いや、無事にっていうよりは“楽しく”、か」
そう言って、人差し指と小指を立てた右手を俺に見せながらニヤリと笑った。俺は照れ笑いで口元がひきつるのを感じつつ、同意を込めて同じハンドサインを返した。
「かといって、自分の幸せを諦めたとかじゃなくて、それが俺にとっては幸せのひとつでもあるってことな。そもそも、自分の幸せ諦めてないからこうなってるわけだし……」
こうなってる、と濁した言い方を誤魔化すように指先で頬をかく。その様子を見て、俺もつい眉が下がり、詰まっていた息が自然と抜けていった。本人に幸せなのだと言われてしまえば、出せる口は何もない。
「あの………総隊長は、新門総指揮のどこが好きなんですか?」
「おぉ、それ、知りたいのか?」
「総隊長が嫌じゃなければ」
唐突な質問に明らかに困惑した表情を浮かべていたものの、俺が早々引き下がりそうにないのを察すると、しばらく首を左右前後に捻りながら真剣に悩んでくれた。それから、悩まし気な表情で首を傾げたまま、への字になっていた口を開いた。
「うーん……シンラもそうだけど、やっぱ部下の前だとちゃんとしなきゃって意識が働くからか、ついカッコつけちゃうんだよなァ俺。だから今回のことも、なんか恥ずかしくて言うタイミング逃しちまって。隠してたみたいで、ごめんな」
「いえっ、俺の方こそ変な騒ぎ方をしてしまって、ご迷惑おかけしました」
敬語で謝った俺の下げた頭に、諸々の反省がズシリとのし掛かる。一番の反省は、アーサーのようにうまく距離感を詰められれば、と思って結局できないまま今の今まで来てしまったことのような気がする。別に友達になりたいわけじゃないけど、せめてもう少し気楽に接せれていれば見え方も違ったかも知れない。俺は出会った時からずっと、この人の器の大きさに救われて、同時にそこに溺れてもいるんだ。
「それでまあ、そういう意味では一緒にいて気が楽なのかもな。上も下もないというか、展望も反省も無理して見なくていい感じが……いや待て、いいのかコレ?」
そんな俺の視野の狭さを思えば、こうしてちょっと顔を赤くしながら困っている様子を間近で見られるのは貴重な機会な気がする。父でも兄でも、師匠でも、ただの上司でも、目標でも壁でもない。総隊長は総隊長なんだ。この人が国や世界を離れて一人の人でいられる場所があるなら、それは多分、俺にとっても幸せなことだ。
「あとまあ、本人の性格的にも、多少のことじゃ動じないくらい打たれ強いし、精神的に丈夫というか……」
なんだろう。なんかこの前新門総指揮も似たようなことを言っていた気がするけど、黙っておこう。代わりに別の気になっていた言葉を思い出したから、そっちを話題にすることにした。
「そういえば、この前新門総指揮にお会いした時になんか変なこと言ってましたよ。なんか、サンコンがどうとか……」
「サンコン?」
「はい、盃の話してる時に……」
「ああ、多分それ三々九度のことだよ。原国式の結婚の儀式」
「けっ……!?」
「そうそう。大きさの違う三種類の盃で、それぞれ三回ずつ飲むから三々九度。皇国の結婚式は教会でやるのが普通だったから、俺らには馴染み薄いよな」
「そっ、そそそうですね」
結婚というワードをまったく受けとめ切れていない状態で同意を求められ、返事の声も思わず上擦ってしまった。それでも、総隊長は特に気にした様子もなく、平然とした顔で話を続ける。
「いろいろ意味が込められてるらしいけど、三つの盃の内、小さいのが過去で、中くらいが現在、で、一番大きいのが未来を意味してるんだと」
両手の親指と人さし指で大きさの違う三段階の円をつくって見せながら、そう説明してくれた。ちょうどそのタイミングで、二人分のラーメンが出来上がった。おまちどおさま、という声と共に背後から差し出され、それぞれの目の前に置かれたラーメンどんぶり。白い湯気とともに立ち上るおいしそうな匂いに鼻の穴が広がる。
「大きい盃で未来の繫栄を祈るっていうからには、こんくらい大きければ安心感あるよなァ」
ほら、と総隊長が自分のラーメンどんぶりを両手で持ち上げ、俺の方に近づけてきた。その行動に最初は困惑した俺も、すぐに意図を理解した。手にしていた割り箸を置き、同じように両手でどんぶりを持ったが、できたてのラーメンは普通に熱い。慎重にどんぶりを持ち上げると、ちょうど同じ高さになったところで、総隊長の方からどんぶりを近づけてくれた。手にした器の大きさに緊張しつつも両手でしっかりと支え待ち構えていると、カチン、と陶器のふち同士がぶつかり硬く軽い音を立てた。
「俺とシンラと、この世界の未来に乾杯」
笑顔と共にそう言われても、俺には無言で引きつった笑いを返すのが精一杯だった。
そのままどんぶりに直接口をつけて塩辛い豚骨ラーメンの汁をすすったら、口の中だけじゃなく目頭も熱くなってきて、ぎゅっと目を瞑って耐えた。そして、たとえお互いが誰とどんな生き方をすることを選んだとしても、この先ずっと、俺はこの人と一緒に未来を創っていきたいと強く思った。いや、創っていくんだと、心に誓った。
〆
(2025.04.08~2025.04.24)