桜々惚々

紅丸×桜備 エピローグ軸/なれそめ/※原作準拠程度の他CP描写あり

「なぁ、紅丸ちゃんグレちまったのかい?」
 そう紺炉に尋ねてきたのは、彫師として浅草で長年腕を振るっている熊五郎という男だった。紺炉よりも二回りは年嵩で、先代の墨も手掛けた職人だ。顔には墨ではなく皺が深く刻まれている。彼に限らず、元第七特殊消防隊の詰所、現世界英雄隊浅草支部の玄関前で日課の掃き掃除をする紺炉に声を掛けていく町民は少なくない。ただの挨拶や喧嘩の仲裁願い、噂話の吹き込みなど……話題はさまざまだ。
「まさか若がまた何かしでかしたか」
 これまた頻繁に出てくるのが紺炉の主でもある紅丸の話だが、ここに関しては良い話と悪い話は五分五分といったところ。今回は悪い話か。心配そうな顔で投げ掛けられた質問に、紺炉がとっさに姿勢を正して訊き返すと、彫師の爺は、ちがうちがうと風呂敷包みを下げた右手とは逆の手を顔の前でヒラヒラと振った。
「墨を入れたいんだと」
「墨ィ?」
「変だろ。今までこれっぽっちも興味なかったってのによ。なんか悪いもんでも喰ったんじゃねェか?」
 首を傾げる男に同調して、どうしたんでしょうねえ、と返しながらも、紺炉の内心では思い当たる節があった。
 そういえば、第八の森羅は『どっぺるげんがー』の影響で別人になっている間に、本人のあずかり知らぬところで全身墨だらけになっていたと聞く。大災害も解決した今、まさか紅丸のどっぺるげんがーが現れたとは考えにくい、が。
「ちなみに……」
 根拠のない心あたりを確信に変えるのは気が引けた。だが、確信に変えてしまえば、紅丸の個人的な些事として片づけられる。
「その……どんな柄を入れたいかなんて話もしたのかい?」
「ああ聞いたよ。花だってさ。桜だ。どうせなら龍でも鳳凰でも入れたら似合うってのに」
「……そうか」
「一度彫っちまったら消すんも大ごとだ。お前さんに一回相談してみたらどうだって、そう言ったら、ガキ扱いすんじゃねえって拗ねられちまってね。詫び代わりに、ホラこれ、ウチのばあさんが作った饅頭」
「余計ガキ扱いされたって怒るんじゃないか?」
「ちげえねェ」
 用を足し終えた男は、ワハハ、と豪快な笑い声をあげながら去っていく。それを笑顔で見送ること数秒、男の背中が米粒ほどになったところで、紺炉は真顔に戻り湿っぽいため息を吐いた。
 さて、どうしたもんか。




「おう、紺炉」
 紺炉が紅丸を見つけたのは、町で一番高い物見櫓の上だった。人体発火現象が無くなり火消しの出番は大きく減ったものの、通常の火事は起こる。特に、今でも木造家屋が多い浅草は一度火が出れば延焼しやすいのも変わらない。
「今日はえらい良い陽気ですね。富士も見えそうだ」
 紺炉はそう言いながら、紅丸が寄りかかっている手すりに両手を掛け、ぐっと身を乗り出しあたりを見渡した。
 大災害と再生を経た世界にあっても、浅草の町並みは結局ほとんど変わらなかった。世界を作り直したシンラが常から浅草を<楽しい町>と感じていたのを思えば不思議はない。
「なんか用か。今日は俺ァ非番のはずなんだが」
「邪魔してすいやせん。しかし、若が博打にも行ってねェとなると、こりゃにわか雨でも降るか。先代は今日も船橋ですよ。生き返ったと思ったら、悪い遊びを覚えっちまったなァ」
 苦笑いを浮かべ、競馬場のある東の方角に目を向ける。千里眼などは備えてなくとも、財布をスッカラカンにして地団太を踏んでいるだろう姿が容易に目に浮かぶ。親子そろって博打の勘が悪いんだからなさけねェ。
「たまにはな。しかし、そう皮肉を言われると賭場の空気が恋しくなってきたな。暇してんならこの後付き合ってくれよ」
「いいんですか? 若が勝てなくなっても」
「言ってろ」
 紺炉の忠告を紅丸が鼻で笑い飛ばす。無根拠な自信にあふれた笑みが、一刻後には悔しさで歪むのだと思えば紺炉も思わず微笑んでしまう。
「そうい──」
「そういや、明日は朝から弔いだ。三丁目の与太ジジイが病気だったろ? 昨日が峠だったらしい。……わりィ、今なんか言おうとしてたか?」
「や、お構いなく。しかしそうか、死に目にはあえませんでしたね」
「しようがねえだろ、遠征中だったんだ。それに、百もすぎての文句つけらんねェ大往生だぞ。まぁ、弔いだけはパーっと派手にやってやろうぜ」
 両手でつくった拳を顔の横あたりまで持ちあげ素早くパッと開く。花火の手真似してみせる紅丸の表情や声には、どこか浮ついた様子が滲んでいた。
「その下調べするためにこんなとこ上がってたんですか。抜け目がねェ」
 人体発火現象がなくなり浅草の破壊王も出番は終わりかと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。自然死や事故死であっても”浅草式”もとい”第七式”の弔いをやってほしい、という町民が後を絶たなかったのだ。無論、弔われる本人や家族の意思とは別に、たまのお祭り騒ぎを期待しているだけの者も多い。
「あの辺は新築も多いからなァ、家ひっくり返すにも骨が折れそうだ。先代と、桜備あたりにも手伝わせるか」
 話題になっている家の辺りを指差して町を示す。突如出された名前も相まって、その横顔の笑みも紺炉の目には意味深に映る。
「……先代はやめてやってください。老体に無理させると、今度はまたあっちがおっ死んじまう」
「そりゃいいじゃねェか。一石二鳥ってやつだ」
 紺炉は縁起でもない冗談を飛ばす紅丸に眉をひそめ、一段低いところにある頭を手の甲で軽く小突いた。




 弔い酒の宴席も佳境に入るなか、さりげなく席を外した紅丸を目の端で捉えていた紺炉は、少し間を置いてから後を追って縁側に出た。ほどなく、ひとけのない部屋の襖に背中を預け夜風を浴びている男の影を見つけた。話すなら今がいいか。
 ちょうどよく生まれた機会を生かそうと、そっと隣に腰かけ、彫師の熊五郎から聞かされた話を切り出した。
「墨ィ? ああ、そんな話もしたかもな。なんだ、手前は入れてんのに俺がすんのは反対か?」
「別に構いやしねえよ。ただ、情人の名前から取ってくるなんてのはバツが悪い。大抵の奴は、後々関係が変わった時に後悔してるぜ。まあ酒の席での笑い話にはなるが……」
「じょっ…! 紺炉、おめえ馬鹿言ってんじゃねェよ! 誰の何の話だ?!」
 滔々と説き伏せる紺炉の言葉を聞きながら肩を震わせていた紅丸が、遂に耐えかね声を荒げて遮る。赤くなった顔からは、動揺のせいか酔った時に見せる笑顔も消えていた。
「え? 違うのか?」
「違ェ。一体どういう勘違いだそりゃ」
「いやだって、若……」
 はぐらかされているのか、と一旦は思うも、新門紅丸はそんな器用な真似ができる男ではないと思い直す。そうなると、動揺するのは紺炉の方だった。
「じゃあなんだ、頻繁に顔見せるし、二人で若の部屋にしけ込むだろ。あれはなんだ」
「しけ込むたぁ、人聞きが悪ィ。酒飲んで話してるだけだ。ここに客人が多いのは昔っからだろ」
 紅丸の言い訳染みた返答も、引き下がる理由にはならなかった。追い詰めて良いものなら言いたい。じゃあなんだ、あの男に対しての馴れた野良猫のような態度はなんだ。無茶も諾々と受け入れる柄にもない寛容さはなんだ。今日の昼間に見せた、あの惚けた顔はなんだ。そもそも、俺は誰のことともはっきり言わず濁したのに、当然の心当たりがあるかのように話を進めているのはなんでだ。
 詰問する材料ならある。だが、今ここで追い詰めても益は無い。本人に自覚がないのならなおのこと。
「悪いな、俺の勘違いだ」
「えらい早とちりだな。そもそも墨彫ろうってのも、風呂屋で熊と一緒んなったから訊いてみただけだ。本気で入れるつもりはねェよ」
「……なら最後にいっこだけ。なんで桜だ。そんなに好きだったか? 桜」
「酒飲む理由になるからな。自分の腕で花見酒なんてのも悪くねェだろ」
 傍らに置いていた盃を手に取り、口へと運ぶ。その顔には、いつも通りの愉快な笑みが戻ってきていた。
 俺にもくれ、と横から飲みかけの盃を奪い取り、残りを一気に煽る。喉、次いで胃がかっと熱くなり、頭の裏の襟足辺りがジンと柔らかく痺れる。うまい酒だ。文句を垂れる紅丸に盃を返してから、はあ、と酒臭くなった息を吐き、目の前の薄暗闇に目を向けた。縁側から見える屋敷の庭の隅には、まだ蕾もついていない桜の巨木が生えている。障子の漏れ明かりに照らされる裸の太い幹の影は、どこかあの男に似ていた。




 桜を好きなのに嘘はない。
 パッと咲いてパッと散る。その潔さが好きだ。そもそも、浅草の人間で桜が嫌いな奴は居ねェ。酒と一緒ならなおのこと。
 嘘は、ない。ただ、好きになる切欠があの男だったと、その事実は伏せた。
 きっとあの男の死に際も桜のごとく、花の色が鮮やかなうちにパッと散るのだろう。枯れる姿も萎びる姿も想像できない。人ひとりの身に余る精魂と気力に満ちた器の持ち主だ。
 先代に連れてってもらった荒川での花見。視界一面の桜の海と風が吹くたびに起こる豪快な桜吹雪に胸を躍らせた。
 俺ァ、あの時から桜が好きだ。ただ、いつの間にやらすっかり忘れていたその感覚を思い出させたのはあの男だった。名前に負けぬ気風の良さで、嵐にも折れぬ太い芯を備えたあの男。
 恋など知らぬ、愛などましてや。
 心躍る。退屈しない。安心もすれば、畏怖も覚える。
 俺ぁどうやら、あの男がいたく気に入っちまっている。
 ただそれだけだ。




 その日紺炉は、町の破壊を手伝ってもらった礼とは別に、ひとつの提案を携えて元第8特殊消防隊詰所・現世界英雄隊本部を訪れた。
「部隊合同での花見か、いいですね。折角だから送別会も兼ねて、集まれそうな人みんなに声をかけましょう」
「送別会ということは、誰か離職を?」
「ああ、退職ではないんですがマキが来月から産休に入るんですよ。無事に産まれたら火縄も育休を取るし……しばらくの間は寂しくなりそうです」
 目を細め朗らかに笑う顔は、まるで自分自身が父親になるかのように嬉しそうだった。元第8は隊というより家族みたいなものなのだと、そう言っていたのは修行に訪れたシンラだっただろうか。
「先日は若の酔狂にも付き合ってもらっちまって……随分派手に暴れてたけど、体は平気か?」
「全然! 賑やかなのは好きだし、良いトレーニングにもなりました。あの時は宴会までは残れなくて残念だったんで、今度の花見で雪辱を果たすつもりです。──案件としては、こんなもんですかね?」
「じゃあー、ついでにウチのしょうもない相談でも聞いてもらおうか。実は若が……」
「また何かしたんですか?」
「墨、じゃなくて……たとぅーを入れるって言い出して」
「うわっ、あの時のシンラを思い出す。男の子って、やっぱ一度はそういう時が来るんですかね」
「男の"子"といえる年でもないんだがね」
「でも、浅草の原国式のタトゥーは粋でかっこいいじゃないですか。シンラの場合は人格もおかしくなっちゃったからイメージ悪いけど、タトゥー入れるだけだったら特段たいした問題にもならなかったかと」
 説明と共にそう遠くはない苦い記憶を思い起こしているのか、乾いた笑いを漏らしつつ視線を斜め右にさ迷わせる。桜備の珍しい表情を見た紺炉も、かつて浅草に第8が秘密基地を構えていた時に垣間見たシンラの”反抗期”をぼんやりと思い出していた。
「悪いこたァないが、なにやら変な感じでね。総隊長から見て、最近若…いや、紅のことで、何か気になる節はねェかな」
「気になる?」
 気になることねえ…と、縫い目のついた首を見てる方が不安を覚えるほどにまで傾け考えていた桜備だったが、突然すっと執務机の大きな席から無言で立ちあがったと思いきや、そのまま紺炉のすぐ横にまで歩み寄ってきた。ふいの行動と詰められた距離にぎょっとした紺炉の体が、反射的に軽く強張る。
「ほら、俺たち丁度身長同じくらいでしょ。だから分かってくれるんじゃないかと思うんですけど、見上げられると照れませんか?」
「照れる?」
「こう、横並びで立ってる時なんかに、こっちを見上げてくる顔が妙に幼く見えて。酒に酔った時の笑顔もそうだけど、あんな顔されると、ちょっと調子狂いますね」
 頬を指先で掻きながら照れ笑いを浮かべる桜備の細まった目。本人が言う通り紺炉の目線とほぼ同じ高さだった。その目からそろりと視線を逸らし、いつも紅丸の顔がある辺りにさ迷わせる。
 あんな顔、と言われても、どんな顔か分からない。
 おい紺炉、と見上げてくる紅丸を思い浮かべてみたが、それは勝気で不遜で、ある意味愛おしいくらいの生意気さに満ちている。が、決して照れるようなもんじゃない。幼い頃からよくよく知っているつもりだが、それだって今の紅丸の全てとは言い難いことを思い知らされた気がした。
「すいません。俺が言いたいのは、とどのつまり気になることはないってことです。これまでの働きにも、文句のつけようがない。この国、いや、この世界にとってお二人とも代えがたい存在です。頼りにしてます!」
 距離が近いまま真剣な面持ちで言い連ねる桜備からこの男特有の妙な圧を受け、耐えきれなくなった紺炉は思わず一歩二歩と後ずさる。
 そういう話ではないのだけど、と返すべきか数秒ほど逡巡し、止める。
「そりゃ、ありがたい……若にも伝えとくよ」
 情人云々と、紅丸より先にこちらにカマをかけなくて良かった。いや、たとえ投げかけたとしても、元より紺炉の意図などサッパリ伝わりそうにない。
 紅丸の真意の程は測りかねるが、たとえどう転んだとしても、大地に根を張る巨木のようなこの男はビクともしないだろう。
 じゃあまた、とそそくさとその場を後にした紺炉は、廊下に出てからほぉ、と詰めていた息を吐いた。まるで自らがスッパリと振られたような気分になり、かえって溜飲が下がるのを感じていた。
「早とちりで、思い過ごしか。紅のこととなると心配が先立っちまってなさけねェな」




「なにが思い過ごしなんですか」
 独り言のつもりで呟いた紺炉は、ふいに話しかけられて、ギョッと驚き眉を吊り上げた。
「驚いた。いたのかい」
「通りがかったんです。総隊長に用があるので」
 いつの間にか横にいた火縄は、いつも通りの淡々とした口調で応じながら、紺炉の背中のすぐ後ろにある扉を指し示した。
「今日はどうなさったんですか?」
「ああ、ちょっとばかしお礼と、あと花見の相談を」
「まだ正月も過ぎたばっかりだっていうのに、浅草の人は気が早いですね」
 皮肉というより、本気で感心している様子で火縄が驚く。眼光鋭く言葉に棘はあるものの、根本は真面目な男だ。
「そういや子供が産まれるんだって? めでてェこった」
「無事に産まれるまではめでたくもなんともありません。死がフワッフワに軽くなったこの世界で、生の重みは余計増したと考えていますから」
 表情を変えずに言い切り、クイ、と眼鏡のフレームを指で押し上げる。少し俯いた顔の眼光が幾分落ち着き、わずかに不安までもが滲んでいるのが紺炉からすると意外だった。
「総隊長とはお話を?」
「まあ、ほんの数分ってとこだが」
「……紺炉指揮官補佐から見て、総隊長に何か変わった様子はありませんか?」
 火縄のその質問に引っかかりを覚えた紺炉は、思わず首を捻った。奇しくもついさっき自分が桜備に尋ねたのとほとんど同じ質問だったからだ。
「何か、ってェと……」
「特に無ければ構いません。忘れてください」
 言い淀む紺炉を待たず早々に切り捨てる。まるで自分の質問が失言だったとすぐに気づいたかのような火縄の様子に、ますます疑念が募る。
「……お互い、頭がジッとしてられる性質たちじゃないから苦労が絶えねェな。世界はすっかり変わったってのに、あの人らはまるで変わりやしねェで、こっちが思いも寄らない行動ばっかりしやがる」
「……全くです」
「……お前さん的にはいいのかい?」
 紺炉が探り探りに投げた質問に対して、火縄は頬も眉もピクリとも動かさないまま素早いまばたきを数度繰り返した。まるで、人間の及ばない素早さで結果を求めているこんぴゅうたあのようだ。妙な状況に陥って、答えを待つ紺炉の額には冷や汗が伝っていた。
 数秒後、火縄は計算の終わりを示すかのように眼鏡のフレームを押し上げてから口を開いた。
「あの二人は今やほとんど神に匹敵する力があります。つまり、喧嘩にでもなれば世界の半分くらいは滅んでも不思議じゃない。仲が良いのに越したことはないでしょう」
 予想外の答えに呆気に取られた紺炉は、一瞬息を呑んでからすぐに我に返り、ワハハハと声に出して豪快に笑った。
「ちげェねェな! 犬も喰わねえような喧嘩だけは勘弁してほしいところだ」
 それから「あんたも花見絶対来いよ」と言い置き、笑顔のまま廊下を玄関に向かって歩きだした。




 ──危なかった。
 紺炉が出て行った後、部屋で一人になった桜備は机に両肘をついて項垂れ、安堵の息を吐いた。
 恐らく、あの世話人は自らの主人の奇行にも、その原因にも気づいている。
 人並の恋愛経験を有し、惚れる方と惚れられる方どちらの立場も経験がある桜備にとってみても、紅丸の態度はあからさまだった。立場や年齢や性別や、否定するための要素をすべて無意味と取り去ってしまえばの話だが、無意味と取り去った方が話の早い、そういう規格外の相手でもある。
 ただでさえ、新門紅丸という男は人の好き嫌いが分かりやすい。嫌いな人間は徹底的に嫌いだし、好きな人間はあっさりと懐に迎え入れ等しく愛する。
 等しく愛されている内の一人。そうだったはずが、どこで、いつのまに変わってしまったのだろう。相手の変化のきっかけは分からないが、それに桜備が気がついた瞬間は覚えている。
 浅草上空に現れた巨大な怪鳥を総出で退治し、そのままソイツを丸焼きにして宴会に興じた夜のことだった。時間も遅くなり、次の日早朝から予定が入っていた桜備は頃合いを見て中座しようと腰を上げた。それを引き留めようと、グイ、とズボンの裾を引っ張ったのは紅丸の手だった。
「まだいいだろ」
 スクワットのような中途半端な体勢で固まった桜備の顔を見上げ、そう訴える。酒が入ってニコニコと笑っていたはずが真顔に戻り、瞼に隠れていた左右非対称な瞳も見えている。眉根にはシワがより、まさか怒っているのかと心配になる表情だったが、酔っているのは間違いないようで、赤く染まった頬が怒るというよりは拗ねた子供じみたかわいらさに和らげていた。
「明日、朝早いんでこれ以上はちょっと……」
 紅丸は酒の席に限界ギリギリまで留まるのが常だし宴会には人が多ければ多いほど良いと思っているタイプではあるが、他人に無理強いすることはない。というより、誰がいつ来ていつ帰ったのかなど把握していない。だから、この時の対応は桜備にとってかなり予想外だった。
「いやだ」
 シンプルにわがままな物言いと共に振り払いたくても振り払えないくらい本気の力で掴まれた裾を、一体どうやって引き剥がしたのかはよく覚えていない。今になって思う。あの時引き留めに応じて帰らないのが正しい選択だったかもしれない。手に入らなかった経験が余計に欲を燃え上がらせるのはよくあることだ。
 あの一件以来、紅丸の態度や視線に欲の混じった色を感じる瞬間が増えた。若さとは恐ろしい。ギラギラと光る欲の刀を大人しく鞘に仕舞っておくなどできないのだろう。
 気づいていない振りでやり過ごせればそれはそれで。そう考えてのらくらしていたところに、今日の紺炉の様子伺いは耳が痛かった。とはいえ、紅丸の変化を察せれるとすれば彼しかいない。真っ先に気づくだろう人物に気づかれただけ。まだ状況は深刻ではないのだ。なにか問題があるとすれば──
「俺、喜んじゃってんだよなぁ……大人としてどうなんだ?」
 うんうんと悩みながらも、耳は扉の外のざわめきに注意を向いていた。部屋を出たばかりの紺炉と、恐らく火縄が、さっきから何やら話しているようだ。内容までは聞き取れないが、言葉が途切れ遠ざかる足音が聞こえて会話の終わりを察する。パン、と両頬を手の平で打ち付け気合いを入れた。
 どう転ぶか分からない以上、自らの動揺を悟られるような事態だけは避けなくては。そう気合いを入れ、予想通りのタイミングで鳴った火縄特有の固く鋭いノックの音に、どうぞ、と大きな声で返した。




 桜の花芽が膨らみ出し、朝着た上着を昼には脱ぎたくなるような日も増えて来た頃、新東京皇国に季節外れの雪が降った。
「え、高熱ですか? なにか感染症の疑いは?」
『念のため元第六のお医者さんにも診てもらったが、問題ないだろうってさ』
「なら良かった。どうせ大した会議じゃないんで、お二人とも欠席で大丈夫ですよ」
『そうさせてもらう。若は能力者の体質のせいか、昔っから熱が出やすくてね。心配するほどのもんじゃないよ』
 電話口の紺炉の声色には、本人の言葉通り深刻さはまったくなかった。電話を受けていた桜備は、最後に一言二言告げてから受話器を置くと、背後に控えていた火縄を振り返った。
「新門総指揮、今朝から熱出てて会議休むって」
「へぇ。病気の方から逃げ出しそうなのに、意外ですね」
「だよな。病気を追いかけ回していじめてそうなのに」
 火縄の感想に頷き同意しながらも、桜備の目はささめ雪が舞う窓の外を向いていた。心配そうな横顔を”心配そう”と認識できるのが付き合いの深い火縄だからなのか、それとも誰の目から見ても明らかなのか、判断が微妙になる程度の表情だった。
「お見舞い、行ってきたらどうですか。どうせ大した会議じゃないですし」




「──ろ……こん、ろ……みず」
 布団から片手を宙へと伸ばし呻く紅丸に、はい、と茶碗が差し出される。その、はい、の声の違和感に気づき薄っすらと目を開けた紅丸は、傍らにいるのが紺炉ではないことに驚き、氷枕も掛け布団もはね除けて上体を跳ね起こした。
「なっ……!」
「うわ、びっくりした。寝てていいですよ」
「吃驚したのはこっちの方だ。てめェ何しに来た」
「何ってそりゃ、お見舞いです。あ、メロン好きですか?」
「好きじゃねえェ……けど双子は喜ぶだろ」
 桜備が片手で掲げた本人の顔と同じくらいの大きさがあるメロンの球を睨み付けながら水を飲み、ノロノロと布団の中へと戻る。
「体調どうですか?」
「どうもこうもねェ。最悪だ。……そういやさっき寝てる時、つっても熱のせいで寝てるか起きてるかもよくわかんねえんだけどな。今のこれも、夢か現かわからねェ。まあとにかく、夢を見てた」
「また前みたいな実体感のある夢ですか」
「ねェよ。実体感も現実感もねェ。ガキの頃の夢なのに、お前も出てきたからな」
「へえ」
「ガキん頃の俺が、町の外れにあるがらくた置き場で能力の使い方間違ってうっかり炎上させちまう。そこを助けに来たのが皇国の消防隊様々ってわけだ。で、起きたら本人がいたもんだから、よけい吃驚したんだよ」
「なるほど」
「四方を火に囲まれて、熱い熱いって泣いてんのが情けなくって我ながらムカついた。熱のせいで見ちまった夢だな」
「ちなみにそれ、いくつぐらいの時ですか?」
「さあな。十かそこらじゃねェか? 先代も生きてたから、どんなに育ってても十三だ」
 あくまでも夢の話なのにまるで実際の思い出のように話すフワフワとした紅丸の説明を受け、桜備は、ふむ、と小首を傾げながら順に指を折った。
 現実感がないと言ったが、その頃の桜備はもう訓練校を卒業して一般消防官として入隊していたはずだ。あり得なくはない。が、もちろん桜備にそんな記憶はないし、そもそも紅丸が炎を怖がったことなど生まれて一度もないだろうから、そういう意味で現実感が無いのかもしれない。
「そういや聞きましたよ。タトゥー入れるって」
「紺炉か。あの馬鹿……」
「どこに入れるんですか? 腕?」
「まだ決めてねェ」
 不満げなドスの効いた声で返され桜備がたじろぐと、紅丸はおもむろに自らの足で掛け布団を撥ねのけた。そのまま両手を左右に伸ばし大の字になると、天井に向かって「選べ」と宙に放るような声で言った。
「選べ。好きなとこ」
「選べ、って言われても……」
 普段つけている黒い腹掛けもなく、寝乱れた浴衣の合わせ目からは首から腰までの素肌が三角形に覗いている。裸を見られるのにも見せるのにも抵抗が無い元第8の男性陣と違い、この男が必要もなく素肌を晒すのは稀だ。活動時間が夜に寄っているせいなのか生まれつきなのか、肌は不健康に青白く、そこに熱のせいでほんのりと赤みが差し妙に人間らしい色になっている。
「布団、ちゃんとかけなさいよ」
 なんとなく見てはいけないようなものに思え、本人が剥がした布団を手早く元に戻す。気恥ずかしさから子どもを嗜めるような口調になってしまった。
「そういや知ってます? 今朝から雪降ってるの」
 話題を変えようと声を張ってそう問いかけた桜備は、部屋の中央に敷かれた布団を回り込んで移動し、縁側の障子に手を掛けた。30センチほどの隙間から、薄っすらと白くコーティングされた庭とチラチラと雪が舞う藍鼠色の空か覗く。雨と雪の境のような、氷の粒に近いみぞれ雪だ。
「すっかり春になったと思ってたってェのに。どうなってんだ」
「なごり雪ってやつですかね」
「なんだって?」
「なごり雪。こういう、季節外れに降る雪。俺はもともと歌の歌詞で知ったんですけど」
「……知らねェな。それよか、用がねェならとっとと帰れ。デカいのがいると気が散って寝れやしねェ」
 寝込んでいても減らない口に、はいはいと呆れ顔で返し障子を閉めようとした桜備は、中途半端なところで手を止めた。
「……どっちなんですか」
 言葉とは裏腹に、布団からはみ出した紅丸の手は桜備の上着の裾をしかと掴んでいる。困惑する桜備が呟いたもっともな疑問に対しての返事はなく、そもそも言葉を発する気力すらもう無いのか、息ばかりが荒い。それでも、見下ろす桜備を見返す細まった双眸の眼光はやたらと鋭かった。
 参ったな、と悩まし気に片眉を歪め目を反らし、仕方なしに、障子の隙間からふたたび外を見る。ここに来るまでの道中にくらべると雪の勢いは幾分弱まり、ハラハラと落ちる白い欠片は花びらのようにも見えた。隙間に鼻先を近づけると、途端に冷たい風が吹き付けてくる。
 ほとんど無意識の内に、視線は外から移さず手だけを自分の腰あたりにさ迷わせていた。掴まれているのがどの辺りかは見なくても服を引っ張られている感覚で大体分かる。だとしても、掴んでいる手を離させようとしたのか、それともただ触れたかったのか、ふいの行動の理由は桜備自身にも曖昧だった。そして、いざ触れた途端に感じた熱の高さにハッとし、ほんの一瞬で慌てて引っ込めた。俺は一体何を──
 指先の行き場に困り、火傷した時のようについ耳たぶを擦る。発火能力を失ったはずの体がこんなにも熱いのは、高熱のせいだけなのか?
「……アレ、どんな歌だったかな」
 動揺を誤魔化そうと意識がはたらいたのか、思考は前の話題へと無理矢理に戻っていく。思い出せるのは曲名から始まる数フレーズだけだったが、試しに口ずさんでみると頭よりも口が先に動き、たどたどしい調子ながら多分合っているだろうメロディーラインを紡げた。
「まぁ、大災害より前の曲だから知らなくて当たりまえですよ。俺もたまたま見つけた古いレコードで──」
 話しかけながら振り返り、いつの間にか目を閉じている紅丸の顔を見て口を止めた。裾を掴んでいた手の力も完全に抜け、布団から飛び出したまま畳の上にぐたりと落ちていた。
 もう自由に動けるようになったもののすぐ立ち上がる気にはなれず、部屋の主の心地よさそうとは言い難い寝顔を眺めた。
 あの夜の引き留めに応じても応じなくても、多分結果は変わらなかっただろう。態度や言葉で表せるような、そんな感情はもうとうに越えている、もしくは必要ない。ような気がする。
 うなじを撫ぜる風は冷たいのに、顔はどんどん熱くなっていくのを感じる。咲いた桜を眺めるのではなく、咲く寸前の蕾を見守っている時に近い感覚。随分と久しぶりに覚えたときめきとしか表現しようのない期待と高揚感に、自然と鼓動が速まる。
「……悪くないな」
 今春が来て、そして唐突に溢れそうになった感情を持て余し、その一言を呟くので精いっぱいだった。




 休日の朝、ヴァルカンが以前に作ってくれたコーヒーメーカーが抽出してくれているのを待つ間に、桜備は一枚のレコードを探していた。
「お、あったあった」
 浅草で季節外れの雪を眺めている時に会話に出てきた歌。棚の奥の方で埃を被っていたそのレコードは、桜備のコレクションの中でも他とは少し毛色が違っていた。ケースの埃を軽く落としてから、円盤を取り出しプレーヤーにセットする。針を落とすと流れ出したのは、穏やかでゆったりとした旋律に、物悲しい歌詞。滅多に聞かないフォークソングも、少し肌寒い朝の空気に合っていて心地よかった。
 この歌で歌われている<東京>は自分が生まれ育った<東京>とも今住んでいる<東京>ともまったく違う世界のはずなのに、別れの切なさには共感できる。情緒など意に介さなそうなのはさておき、原国の文化が色濃く残る街で育った彼がどんな感想を持つのかは興味があった。
 元第七のあの屋敷にレコードプレーヤーなんてありそうにないから、この部屋まで来てもらうのが手っ取り早いかも知れないな。たわむれな思いつきがレコードと一緒に頭の中を回る。レコードが録音した過去の音を再生するように、一度覚えたときめきの感触が蘇る。
 たとえば、シンラやアーサーは桜備から見れば子どもか弟のようなものだ。部下でありヒーローであり神であり、一言では表せない複雑さはあれど、どちらかと言えば肉親に近い関係なのは間違いない。紅丸も年齢で言えばシンラ達に近いが、出会った当初から立場は対等で、子ども扱いが失礼になるほどに強靭さも背負うものの大きさも過剰だった。お互いに違う正義を生きているのは明白でも、肩を並べ手を取り合うに足る存在。中途半端だが、だからこそ稀有ではある。
 それが恋だと、まさか愛だと。
 疑いを捨て素直に向き合うのがこんなにも難しい事案は今までにあっただろうか。相手の気持ちも自分の気持ちも、どちらも易々とは信じられない。とはいえ、ないがしろにするつもりもないのだが──




「これ、お見舞いのメロンです。本人はいらないからヒカゲとヒナタにあげてくれって」
 紅丸の部屋を出た桜備は、土間の台所で夕飯の支度をしている紺炉を見つけ声をかけた。紺炉は包丁を動かしていた手を止め、笑顔で面を上げた。
「おぉ、悪いな折角持ってきてくれたのに。若もスイカは好きだよ、ウチの畑でも育ててるし。それに若の手刀スイカ割りは芸術だからなァ。夏になったら見に来るといい」
「芸術的スイカ割り……」
 想像し難しい言葉を反復し、首をひねる。その顔を見ていて何かに気がついた紺炉は、下から覗き込むように軽く首を曲げ、怪訝そうに眉をひそめた。
「おいおい総隊長、若に熱でもうつされたか? 顔真っ赤だぞ」
「もーそれ分かって言ってるでしょ? 人が悪いな……」
「ハハ、まぁな。でも、分かってんのにはぐらかすのだって良かァないだろ」
「っそんなつもりは……」
 ない、とも言い切れないせいで、嘘がつくのが得意ではない桜備の言葉尻はあからさまに濁る。その様子を見ていた紺炉は、ふぅ、と鼻から息を抜いてから眉尻を下げて微笑んだ。
「そっちの立場からすると突拍子もない傍惚れに思えるかも知れないけど、若もこういう勘に関しては悪くないんだ。ケツの青いガキの酔狂とも言い切れない」
「はぁ」
 桜備は曖昧な相槌を打ちながら、紺炉が伸ばしてきた手にメロンを渡した。
「俺もいまさらあんたのことを疑っちゃぁいないが、ああ見えて意気地がないし、意外に打たれ弱いところもあってね。ひどい女に遊ばれて捨てられるくらいならまだ慰めようもあるが、相手が桜備じゃなぁ。他にもっといい男はいる、なんて簡単には言えねェしよ」
 受け取ったメロンを両手の中で転がして品定めながらそう言い、最後に困ったように微笑んで肩をすくめた。
「しかしどうにも、腑に落ちないと言いますか。その……なんというか、モテるでしょう、新門総指揮は」
「そりゃあもう、女にも、それこそ男にもモテるよ。袖にされて泣いたり狂ったりしてる奴も数えきれないくらい見てきたが……まあ、そいつらの中に脳天ぶっ叩いて血ィ出させるようなのはいなかったのはたしかだ」
「その節は、ご迷惑をおかけしました」
「いや、むしろありがたかった。アレも若が頭んなる覚悟決めた切欠のひとつだ。まぁ…それ以上に妙な拗らせ方しちまったみたいだが……下手に口出す気はねェけど、嫌でも目に入っちまうからなぁ。俺としては、若が楽しそうならそれでいいよ」
 落ちくぼんだ眼窩の奧の目が、じっと桜備の顔を見つめる。微笑みの浮かんだ口元に比べると、眼光は冷たく鋭い。いまだ顔の中央に残る一文字の聖痕は一切歪んでいない。
「紅のこと、よろしく頼むな……盃を交わしてるとは言え、万が一不義理で頭の面子を潰されるようなことになりゃこっちも黙ってるわけにいかないんでね」
 丹念に研がれた出刃包丁を握っていた紺炉の右手に力が込もり、ストン、と頭ほどもある大きなメロンを軽々と断つ。真っ二つに割れたメロンの片割れがゴロリとまな板の上を転がり、無数の種が並ぶむき出しのオレンジ色の中身が、新鮮な果汁を滴り落としながら桜備の方を向いた。
 そこんとこよろしく、と念を押す紺炉の声が暗い土間を這う。桜備はすぐには頷けずに、ゴクリと口内に溜まった唾を呑むにとどめた。




 ビンッ、とレコードの針が飛んだ不快なノイズで、見舞いの日の紺炉との会話を振り返り隘路に行き詰まり掛けていた桜備の思考は途絶した。音が止まっても同じ速度で回り続けているレコードを止め、撥ね上がった針が曲がっていないかたしかめる。古いレコードの傷が原因だろうが、プレーヤー本体の調子も最近良くない。気分を変えるついでに修理を頼もうかと、同じ建物内にあるリヒトの研究室へと向かった。
「あれ、ヴァルカン?」
「あれ、総隊長? リヒトに用なら、トイレ行ってるだけだからすぐ戻るよ」
 目的の場所で思っていたのとは違う人物と顔を合わせ、お互いに軽い驚きの声をあげた。分野は微妙に違えど、職務上相談し合う機会も多い二人なので不思議はない。開発中の機械を弄っていた手を止めたヴァルカンを前にした桜備は、ついつい目が行ってしまう綺麗に刈った頭や首、半袖のシャツから覗く二の腕に彫られたライン状のタトゥーを指差しながら尋ねた。
「そういや、ヴァルカンのタトゥーってなにか意味はあるのか?」
「意味? ま~無くはないけど、俺はどっちかっていうとファッション目的かな。なに、もしかして興味あんの?」
「興味ってほどでも……でも、ヴァルカンのタトゥーはかっこいいなとは前から思ってるよ」
「入れる時はあんま気にしてないけど、多少知ってはいるよ。たとえば、この二の腕のラインは戦士か、部族のリーダーとかが入れるやつ。あと、肩は強さの象徴とか……そうだ、シンラが入れた足首は<挑戦>かな。ただのファッションって言うには奥が深いよな」
「この腕のやつは、リサさんも同じの入れてなかったか?」
「あーそうだっけ? まあ、それこそそんな深い意味はないよ。リサが真似して入れたがっただけっつーか……」
 桜備の指摘に、ヴァルカンは頭を搔きながら目線を斜めに逸らし、ぎこちなくとぼけてみせる。その照れくさそうな顔を見て、桜備は口元を緩め無言で微笑んだ。
「そもそも、この辺のは元々俺が親父の真似して彫ったんだ。だから、家族の証みたいなもんかもな」
 ヴァルカンは、育ての親や肉親ではない、二番目の家族をつくったのが人並よりもかなり早い。その二人に注いできた愛情に嘘も裏もなく、だからこそ関係は障壁を乗り越え今なお円満に続いている。
 愛する人に真剣に向き合うという姿勢ではまちがいなく上級者だ。Dr.ジョヴァンニからリサを救い出したその時に傍らにいた桜備は、18歳の青年と思えないほどの愛の深さと覚悟を肌身で感じた。人を愛するのに、特別な技術はいらないし年齢も関係ない。たとえ老齢であっても愛の深さも広さも知らない人間は、世界が変わっても哀しいかな存在する。
「……ちょっと意地悪な質問だけど、リサさんに会ってどうしてすぐに家族として受け入れられたんだ? 全然知らない相手だろ?」
「理由かぁ。うーん、まあ事情を聞いて共感したのもあるけど……」
 顎に手を当てて悩み始めたヴァルカンは、さほど時間をかけずに答えにたどり着くと、ピン、と人差し指を立てて閃きを表現した。
「そもそも、俺がじいさんの孫、親父の子どもに生まれたのだってただの偶然だろ。でも2人が大切な家族なのは間違いない。ユウもリサも出会ったのは偶然で俺が選んだわけじゃないけど、お互い自然に助け合えたからそれで別にいいんだよ」
「そうか。一理あるな」
「それと、デカく意識が変わったのはジョヴァンニの件で壊れかかった後かな。機械はそもそも壊れないようにつくるのが一番だけど、人間関係はそう簡単にはいかないって俺も学んだし……。壊れるのは仕方ない。それを直したいって思えるかどうかが大事なんだと思うよ」
「なるほど。でも総隊長の場合むしろ壊すの専門の人が相手だから困っちゃいますね」
 ぬっ、といつのまにか部屋に戻っていたリヒトが二人の間に長身を割り込ませ、物知り顔で相槌を打つ。驚いた桜備は、あはははと暢気に笑うリヒトの白衣の襟を強引に引っ張り自らの傍に寄せた。
「なっ、んでお前が」
 動揺に肩を震わせ小声ながらも強い口調で詰問する桜備に対して、リヒトは顔色を変えずこともなげに返す。
「ジョーカーから聞きました。あの二人、いまだに結構仲いいんですよー。腐れ縁ってやつですね。あぁ、もちろんジョーカーは100%面白がってますけど、僕は真剣に応援してますよ」
「応援って……どっちのだ?」
「どっちでも。なにはともあれ平和に解決しますように、って。応援というよりは祈りですね」
 そう言うと、元の世界でも信心など持ち合わせていなかった男は、指先を合わせて祈りのポーズをとってみせた。横で二人の様子を見ていたヴァルカンは、仔細は分からないながらも雰囲気からあることに気づき、片方の眉を吊り上げ驚きの表情を浮かべた。
「え、もしかしてこれって総隊長の恋バナだったの!? 俺、こういう勘が悪いんだよなあ」
「意外か?」
「そりゃ意外、いや、意外というか……なんだろうな。総隊長はみんなに愛されてるしみんなに平等に接してくれるじゃないすか。だからかな、誰かを特別扱いするっていうイメージがないんだ」
 自分の考えに納得して頷くヴァルカンの横で、リヒトもうんうんと顎を縦に揺らす。
「桜備総隊長は古のアドラー心理学でいうところの共同体感覚が非常に強い人ですからね。常人は諸々を飛び越えて社会や世界なんて曖昧なものを守るために命を懸けて戦ったりできません。ヴァルカンくんのように身近な家族を大切にするところからスタートするのが普通です」
「俺にも育ての親はいるし、それこそ元第8のみんなも家族みたいなもんだぞ」
「それはもちろん。でも世界も変わりましたし、彼らも個としての幸せをドンドン追求してますからね。ちょうど子離れの時期なんじゃないですか?」
「おいおい、寂しいこと言うなよ」
「俺は総隊長のことずっと好きだけど……。でもなんであれ、総隊長が幸せになるってんなら誰も文句ないと思うよ」
「まあ、自分の好きにしたらいいってのはよく分かってるんだけどな……」
「現状の関係が居心地いいならなおさら、一度壊してみるのはアリな手かも知れませんよ。なにごとも試してみないと、待ってるだけじゃなんの結果も出ませんから」
「……リヒト、お前も応援してるんじゃなくて面白がってるよな?」
「ありゃっ、バレましたか」




 先週まで雪が降っていたとは思えない初夏のような陽気が続き、東京でも桜の蕾が次々とほころび始めた。ずらり並んだ川沿いの桜も図ったかのように九分咲きとなった花見当日。桜備は、心地よい陽気のせいか人出も増えて賑わっている浅草町内を歩き回り、人を探していた。とはいえ、きょろきょろと酒屋や賭場の軒先に目を配りながらも足は検討のついている一か所へと真っ直ぐに向かっている。
 見慣れた暖簾を腕で押し、広々とした玄関に人の気配が無いのを確認すると、すぐに中庭へと回った。こちらも人の気配はないが、訓練のために広く空けられたスペースを囲むようにして植えられたたくさんの草木が風に揺れ、騒めきで桜備を迎え入れる。今日は白い雲ばかりが浮かぶ晴天だが、朝からずっと、湿気を含んだ生温かい南風が強く吹いている。
「よぉ」
 強風に木々が騒めく音に混じって、桜備の頭上から低い声が振ってきた。
 桜備程の体格があっても一抱えにするのは難しそうな太い桜の木。探されている男は、その桜の木が3つ股に分かれたうちの一本の枝の根元に腰かけていた。特段人の目から逃げていたつもりも無いのか、見つかっても特段慌てる様子はない。両足をブラブラと揺らしいつも通りの不機嫌そうな顔で地上を見下ろす紅丸の姿は、猿、もしくは天狗を思い起こさせた。
「あぁ、そんなところに。みんな探してますよ」
「…」
「体、元気になったみたいで良かったです」
「……」
「しかし、ここにも桜生えてたんですね。全然気づいてなかったなぁ」
「…………」
 目線は真っ直ぐに桜備を見下ろしているが、口はまったく開かない。桜備としてはほとんど道端の野良猫に話しかけるように気分で、呼びかけに返事がないのも気にせずに大きく声を張り続ける。
「桜といえば、タトゥーどこに入れるかっていうアレ。肩がいいんじゃないですか? 肩にタトゥー入れるのは<強さ>の象徴らしいですよ」
「……彫らねェよ」
「え?」
「俺ァ彫らねェんじゃなくて、彫れねェんだよ」
 ボソボソと呟いて最後、よっ、と言葉尻に合わせて勢いをつけ、枝から飛び上がる。妖怪か妖精のように見えても実際は人間だから、ふわりと柔らかく舞い降りるわけにはいかない。ドサッ、と数十キロの体が落ちた衝撃で、砂埃が舞う。紅丸が膝を伸ばして立ち上がる頃には、揺さぶられた枝から遅れて落ちてきた桜の花びらが二人の間をふわふわと舞っていた。
「この桜の木は、先代の先代が植えたもんらしい。ガキの頃は先代や紺炉に怒られそうになるとよくこの上に登って逃げた……すぐに叩き落されたけどな」
「だからか。多分ココじゃないかって教えてもらったんです。しかしそんな昔から……通りで立派な枝ぶりだ」
 腕を組み、長い年月をかけて成長しただろう太く高い桜の木を、感心した表情で見上げる。紅丸は桜の深い割れ目が無数に走る木の幹に背中を預けたまま、逸らされた太い首の中央を走る縫い目をジッと見つめていた。
「……昔、先代が色恋に関して俺に教えてくれたことってのがいっこだけあってな」
「へぇ。なんですか?」
「惚れた方が負けだ、だってよ。だから彫れねェ。認めることになる」
 片袖を抜いた右手が長い前髪をかき上げ、立てた指でぐしゃぐしゃと乱す。露わになったのは、眉根にきつく皺を寄せて桜備を睨みつける子供じみた悔しそうな顔で、感情表現としては言葉よりもよほど雄弁だった。
「勝つか負けるかってもんなら、俺が負けるわけにはいかねェだろ」
「でもその理屈でいったら、もう負けてませんかね?」
返事はない。代わりに、くるりと片足を軸に身を翻えし、桜の木に片手と額とを預けて寄りかかった。必然、桜備の方に背を向けることになり表情は読めなくなった。
「いいんですか、浅草の破壊王が負けっ放しで」
 あァ?と喉奥を擦るがなり声と共に顔だけ勢いよく振り返った紅丸に、桜備は特段怯むこともなく続ける。
「一回負けても、次で勝てばいいじゃないですか。前にそんな感じのこと言ってませんでした?」
「……それは博打の話だ。じゃあなんだ、次は何で勝ち負けつけりゃいいんだよ?」
 紅丸が不機嫌そうにな眉をいっそう歪め、挑発的に顎をしゃくる。それを受けて、桜備は顎を引いて一度目線を落としてから、伺うような視線を相手に投げ、声量をワントーン落として呟いた。
「……布団の中とか」
 当然、妙な間が生まれる。紅丸は桜備の返事を聞いて思わず目を見開きかけたのをグッと堪えると、そのままさらに細め、嫌悪露わなうんざりとした顔をつくった。
「おい、なんだその犬のクソみてぇな誘い文句は」
「そこは別に、ただのクソでいいでしょ」
 妙な具合に歪んだ空気の中、桜の木から体を離した紅丸が、ザッザッ、と地下足袋で地面を蹴って桜備の目の前まで歩み寄る。ぶつかるまであと一歩のところで足を止めると、首をぐいっと上向きに逸らし、20cm上にある明らかに戸惑っている顔を見上げた。
「……ちょっとしゃがめ」
「へ?」
 グイ、とTシャツの襟首を掴んで引っ張る紅丸の手に対して、桜備はわずかに抵抗をしながらも腰を曲げた。抵抗したのは、起こり得る状況を咄嗟に予想したからだ。案の定顔の距離が一気に近くなり、紅丸の長い前髪が額に触れそうになったところで思わず固く目を瞑る。ただ、桜備の予想は外れ、顔がそれ以上に近づいてくることはなかった。そして、予想していた顔ではなく頭の方、右耳の上あたりに何かがそっと触れる感覚があった。
「花ついてんぞ」
 二人の鼻先と鼻先の間に、紅丸が指先で摘まみとった桜の花びらを掲げてみせる。目を開いた桜備は薄ピンク色の小さな花びらとその向こうにある紅丸のしたり顔のどちらにもうまくピントを合わせられずに、ぼんやりと状況を理解していった。
「あんたっ!……ん」
 揶揄われたのに気づき声を荒げようとした瞬間、熱くなった桜備に反して水の流れるように静かに紅丸の上体が動き、口で口を塞いだ。一度フェイントを掛けられ油断していたせいもあって、ただ唇の表面同士を触れ合わせるだけのキスでも、桜備の動揺は激しかった。ポロリと桜の花のひとつが枝を離れ、ヒラヒラと風に舞い地面に落ちるまで。その程度の時間だけ続いた柔らかい感触。その間ずっと瞬きもできないくらいに全身を硬直させていた桜備は、解放されるやいなや、屈めていた腰をさらに曲げてその場にうずくまった。
「もおぉぉ~~なんなんですかコレ」
 不満と動揺が混ざった唸り声をあげながら頭を股の間に入れ込むようにして小さくなり、首の裏まで真っ赤になっているのを隠すために両手で押さえる。紅丸は突っつかれたダンゴムシのように丸まった巨体を見下ろし、ハッと鼻で笑った。
「えらい初心だな。これなら余裕で勝てそうじゃねェか」
「別に、勝負もしてないし勝ちたいわけでもないし……」
「おら立て、部屋行くぞ。今なら花見の準備で連中みんな出払ってるから丁度良い」
「え、今って、今ですか?!」
「善は急げって言葉を知らねェのか。生娘じゃあるまいし心の準備なんて要らねェだろ」
 手首を掴んで歩き出した紅丸にひっぱられ、体勢を崩した桜備もつんのめりながらなんとか後に続く。
「ちょっ、でもっ、花見はいいんですか? みんな待ってますよ」
「どうせ夜中までやってんだ、後で顔出しゃいい。それに酒飲んで騒いでたら誰がいようがいまいが気にしちゃいねェよ」
 それはどうかなぁ、と易々とは肯定できずに疑問形の相槌を口の中で呟いた桜備の脳裏には「早く戻ってくださいね」とBBQ用のトングをカチカチと鳴らしながら念を押してきた火縄の厳しい表情が浮かんでいた。
 足を縺れさせながら靴を脱ぎ捨て縁側に上がり、庭に面した障子の開け放たれている一枚へと紅丸が迷いなく進む。起床して間もないのか、布団一式が人の抜け出たそのままの形で敷かれていた。二人よりも先に、強い風に運ばれ飛んできた桜の花がするりと和室の中に滑り込む。紅丸は5枚の花びらの形をきれいに保ったまま畳の上に落ちたそれを踵で踏みつけ中へと入ると、掴んだままだった桜備の手首を唐突に離し、自分より一回りは大きい体を軽々と蹴り飛ばし奥へと追いやった。布団の上に転がされた桜備は、咄嗟に受け身はとったものの尻餅をつき、衝撃に一瞬顔をしかめる。
「扱い、雑……っ」
 不満を訴えようと顔をあげ、目に入った光景に思わず息を呑む。薄暗い和室で仰ぎ見ると、外の光を背中から受けた紅丸の立ち姿は妙に大きく見えた。桜備を見下ろす左右非対称な瞳の赤色は、闇夜に点る非常灯のように煌々と輝いている。これは、危険を知らせる色だ。悩んでいてもしょうがない、いっそ一度壊してみてもいいかと、その判断は軽率だったかも知れない──
「今日はひさしぶりにうまい酒が飲めそうだ」
 悠々と弧を描いた唇から溢れた呟きを、いまだ強く吹いている風の音が掻き消す。紅丸が後ろ手に障子をゆっくりと閉め、真昼の空が隠れていく。細い隙間になり、そのまま完全に閉じ切るまで見えていたその空には、今日の内にすべてを散り落とさんばかりの勢いで桜の雪が降っていた。




(2025.03.15~2025.04.06)