大隊長カレーの日

 シンラとアーサーが浅草にある第七へと実践稽古に通い始めて数日。初日より慣れてきたとは言え、稽古が終わる頃には体の自由が利かないほどにまで疲弊するのは変わらなかった。
 だが、その日に限ってはいつもと様子が違った。
「あ!」
 第七の詰所の庭で四肢を投げ出し地面に伸びていたシンラが、なんの前触れもなく大きな声をあげ、バネのように体を跳ね起こした。容赦のないかわいがりで死に体になっていたとは思えない元気の良い声。その声に反応して、隣で同様に伸びていたアーサーも「そうか!!」と声をあげ、同じ勢いで体を起こす。
「なんだ、急に元気になりやがって」
 地面に座る二人の背後から紅丸が怪訝そうに尋ねると、二人は同時に振り返った。
「今日は大隊長カレーの日なんです!(だ!)」
 普段は目が合っただけで喧嘩になる犬猿の二人が、ここぞとばかりに声を合わせ、同じような満面の笑みで同じように両目を輝かせている。
「かれー?」
「あれ? もしかして、浅草ってカレー食べないんですか?」
「知らねェな」
 ウワー!アリエネー!モッタイネー!と、浮かれているせいか遠慮なく騒ぎたてる二人。するとシンラが、閃いた、という表情で再び紅丸を見上げた。
「そうだ。新門大隊長も第八に食べに来ますか? すっげーうまいんですよ、大隊長カレー」
「……行かねェよ、馬鹿ヤロウ」
 紅丸は、これ以上相手をするのは面倒だという意思を表情で示し、シンラの誘いを断った。
 まだ、第八が特殊消防隊でなくなるとは誰一人として想像もしていなかった頃のことだった。



 隊員数が片手の指の数を超えたタイミングで、大隊長の立場と職務内容を鑑みて食事当番のローテーションからは外すべき、と進言したのは火縄だった。桜備自身はどちらでも構わなかったが、言葉通りの台所事情は火縄が適任と早々に任せてしまっていた以上、異論はなかった。
その火縄が「カレーだけは、桜備大隊長がつくった方が美味い」と断言したことから生まれたのが、毎月最終金曜日の“大隊長カレーの日”だった。
 逆賊として国家に追われ浅草に身を潜めてからしばらく、その日が最終金曜日だと気がつき「カレーが食べたい」と最初に言い出したのは環だった。流されるままに混乱の渦に巻き込まれた環は、とにかく“平凡な日常”に飢えていた。そんな彼女の涙ながらの訴えもあり、桜備は急遽間借りしている第七消防隊詰所の台所で、いつも通りのカレーを作ることになったのだった。
 その前から手が空いている隊員がいれば食事の支度の手伝いなどはしていたものの、主導権を取って使うのは初めてだった。紺炉に了承を得て火華にルーの買い出しを頼みと多少なりの迷惑もかけたものの、結果的には、浅草には馴染みの薄い皇国の料理を振る舞ったことで、血気盛んな第七の火消し連中と第八の隊員の親睦が深まる良いきっかけにもなった――



「もう、ひと月経ったのか」
 紅丸は引き戸を細く開いて台所に入って来るとすぐに、そう言った。土間にいたのは、数十人分の量を一気に煮込める大きな寸胴鍋と向き合っている桜備ひとりだった。
「どうしました? 酒ならここにはないですよ」
「知ってる。ただ、詰所中に匂ってるから見に来ただけだ」
「またやらせてもらってます。前回が意外と好評だったんで……」
「あぁ……アイツな」
 複雑な心境が垣間見える桜備の苦笑いを見て、紅丸は目線を宙に泳がせて記憶を辿った。ちょうど一ヶ月前の最初の大隊長カレーの日、最も場をざわつかせたのはシンラだった。
 柱の出現で人格が変わって以降、反抗期の不良少年よろしく隊員揃っての食事の場への参加を拒んでいたシンラだったが、唯一、大隊長カレーの日だけは夕食に姿を見せたのだ。ざわつく面々を余所に、うまいともまずいとも言わずに、ただただ皿を空っぽにし、無言で去っていった。
「あ~……あの時のシンラの反応は意外でしたね。とんでもない奴でも、やっぱりシンラではあるんだなってちょっと感動しましたよ」
 第八の面々、特に桜備と火縄が不良息子に振り回される両親のように説得、叱咤、宥めすかしを駆使して必死で向き合おうとする姿は、誰の目にも入ってくる。なんらかの希望の可能性を感じたカレーづくりに精を出すのも、涙ぐましい努力の一環と受け取られていた。
「シンラもですけど……新門大隊長も。あの日、おかわりしてたでしょ」
「……目敏いやつだな。紺炉かよ」
「目敏いんじゃなくて、見てるからですよ」
 そう言うと、首をぐいと曲げ、隣にいる紅丸を見下ろした。自然、その前から見上げていた紅丸と目が合う。
「好きな人のことは、意識しなくても自然と目が追っちゃうんで」
 唇を軽くゆるめた和やかな表情のまま、恥じらいの一切ないサッパリとした口調で言う。
 紅丸は桜備の告白紛いの言葉に対しては苦々しい顔をするだけで何も応えずに、二人の間にある桜備の左手を掴んで自らの方へと引き寄せた。中指に巻かれている絆創膏を親指で軽く撫ぜると、次いで、何も巻かれていない薬指へと移り、柔らかい指の腹の皮膚を擦る。
「……この前ん時は、こっちの指に巻いてたろ。苦手なのが分かってんなら下拵えは人にやらせろ。血の味がしちゃたまったもんじゃねェぞ」
「や、苦手ってわけじゃないですよ? ちょっと力加減に失敗するだけで……」
 指を揉まれる感覚がむず痒いのか、桜備は肩から腕にかけてをぎこちなく揺らしながら紅丸の指摘を否定した。
 それが苦手ってことじゃねェのか、と言いたくなるのを口内で留めた紅丸は、掴んでいた左手を解放してから、再び鍋を覗き込んだ。
「しかし、シンラもそうだが、他のやつもエラい喜びようだったな。血とは言わねェが、なんか珍しいもんでも入ってんのか?」
「特には。ただ、カレーってつまるところ大勢で食べりゃうまいんですよ」
「は?」
「本当に特別なことはなんもしてない、普通のカレーですよ。それなのにうまいのは、大勢で食べるからってだけで。食事って何を食べるかより誰と食べるかっていうのが大事じゃないですか?」
「まぁ……そうかもな」
「あと、カレーってそれぞれ自分の家の味というか、お袋の味みたいなのがあるから。かえって変に凝ってないのがいいのかも知れないですね」
「そんなもんか。第七うちじゃこの前食うまで作ったことも食べたこともなかったからな」
「あれ? じゃあ……俺のカレーがお袋の味になるってことですか?」
「言い方は気にいらねェが、そうなるな……。おい、なんだその顔、喜んでんのか?」
「そりゃ嬉しいでしょ。なんであれ、初めての存在になれるのは」
 指摘された桜備は、緩んだ口元を手で隠しながら照れ隠しに軽く眉をひそめた。それでもすぐに真顔に戻ると、手元に用意していた小皿にカレーを取り分け味見をして、う~ん、と低い声で唸った。
「うまい、けどマジで普通だなァ。正直、俺が一番不思議ですよ、みんながなんであんな喜ぶのか……」
 首を首を捻ってそのまま、隣に目を向ける。
「味見、しますか?」
 そう言ってペロリと唇を舐めた桜備の伺うような誘うような視線に、紅丸も一拍遅れてその意図を察し、呆れ顔で舌を鳴らした。
「色惚けてんじゃねェよ。したいんだったら普通にしろ」
 手厳しく撥ねつけられた桜備は、そうですね、と嬉しそうに笑い、小皿を置いてから腰を屈めた。


 好きな相手と口を重ねるのもお前が初めてなのだと、そう言ったらさぞかし喜ぶだろうと思いながら、太い首に手をかけ引き寄せる。鼻をくすぐる甘さと刺激が混ざった独特の匂いが、唇の表面を軽く擦り合わせるだけの戯れじみた触れ合いで伝わってきたものなのか、すぐ横にある鍋から漂ってきただけなのかは定かではない。
 至近距離で見る熱を帯びた茶色い瞳の色は、鍋の中でドロドロと煮詰まっている粘液にも似ている。食べても食べても満たされないくらいに欲しているのだと。見て分かるほどなら、言ってやる必要もない。唇の端から、頬を伝って耳朶まで。肌を撫ぜながら唇をずらすと、むず痒いのか息の漏れる音がする。
「……初めてよりも、最後になりてェもんだけどな」




(2025.07.21)