うかのまの
テーマは「瞬」でした。
はじめてキスをした時の相手の顔を思い起こそうとしても、霧の中に咲く花のように、輪郭が曖昧にぼやけている。決して、記憶が薄れてしまったせいではない。
「──常闇くん、なんか、目が怖いんだけど」
三秒間合わせた口が離れてすぐに、ホークスが呟いた。秒数まで正確に覚えているのは、少しでも平常心を保とうと心の中で数えていたからだ。
「ん? ああ、瞬膜が出たのか」
慌てて瞬きを二、三度すばやく繰り返すと、半透明の第二の瞼が開く。ぼやけていた視界が明瞭になり、怪訝そうに片目を細めこちらを伺っているホークスの顔が真正面に映った。
「はじめて見た。鳥とか魚とかにあるやつだよね?」
「あるというだけで、使う機会はほとんど無いからな」
「じゃあ、なんで今?」
「さあな、無意識だ……多分、緊張のせいで」
今までにない近さまでその顔が近づいてくる。そう身構えたら、直視を恐れた眼が反射的に膜を張っていた。結局、薄膜一枚越しのぼやけた視界以上に柔らかい唇の感触に気が動転して、それどころではなかったが。
「面白いもん見れて良かった。でも、ビックリしちゃってよく分かんなかったから」
だからもう一回、とニヤニヤ笑いながら近づいてくる顔の圧にぐっと息を呑んで堪え、しかと目を見開いた。
ほのかに紅潮したピンク色の肌も、思いのほか動揺に揺れているる蜂蜜色の瞳も、色素の薄い睫毛がつくる繊細な影も、全部、二度目のキスの時に見た光景だ。
数年前の記憶を思い出しているのには理由があった。今、目の前で横たわるホークスの体が半透明の薄い膜に覆われているからだ。
『〝羽化〟までにかかる時間は、予測では丸三日』
そう中央病院で説明を受け、いざホークスが眠りに着いてから、すでに二日と半日が経っている。
羽化というのは分かりやすく説明するための表現に過ぎないが、言葉通り、ベッドの上で膝を抱えて丸まった体を、輪郭がぼんやりと透けて見える程度の半透明の白い膜がすっぽりと包みこんでいる状態は虫のサナギのようだった。
ホークス以前に再生を試みた者達も、同様の状態になったらしい。目に発現する個性の者は目を、手に発現する個性の者は手が膜に覆われる。ホークスの場合は、体全体が対象だった。説明のすべてを理解できてはいないが、その膜に覆われている間は個性が発現する幼少期のように、細胞分裂が活発になるらしい。
細い糸で織られた薄布のような、繊細な膜。呼吸に合わせて中の空気と共に微かに膜が動き、異質な塊は、大きくなり小さくなりを緩慢に繰り返している。
ホークスは、そして俺は、羽化の瞬間を待っていた。
個性が発現したのが何歳の時だったのか、ホークスは自分でも正確には覚えていないそうだ。個性届も出されていないため、記録にも残っていない。
「ああでも、季節は分かるよ。ちょうど蛍が飛んでる頃だったから、夏のはず」
ある夜、突然背中に激痛が走った。耐えきれずに痛い痛いと泣きじゃくり床を転がっていると、父親にせからしいと怒鳴られ、家の外へと追い出された。
「外に出て蹲ってたら、目の前をスーって光がよぎってさ。よくよく見たら、あたり一面にすげーいっぱい蛍が飛んでた。おかげで気ぃまぎれたよ。家が川沿いにあったのは良かったね」
誰にも見られないまま、羽化を果たした夜の河原。はじめて聞かされた思い出話の最後に、ホークスは笑顔でこう言った。
「二回目は、常闇くんが見守ってくれるから安心だ」
ヒーロー公安委員会が研究のために採取していた個性因子を元に、失った剛翼を再生できるかも知れない。
ホークスがその提案を迷いなく受け入れたのを、正直意外に思った。驚いている俺を横目に「悪いね」と笑う顔に迷いはなかった。だって、今までに一度もそんな願望を口にしたことなど無かっただろう。大いに困惑はしたものの、本人に代わって拒否するのもおかしい。
どんなに意外でも、ホークス本人が望むのなら構わない。ただ、懸案すべきは、百パーセントの成功が約束されていないという点だった。
万が一の場合、急激な個性因子の増殖に体が耐えきれず、肉体的な損壊や、最悪の場合は意識が戻らない可能性が──およそ三パーセント。そんなの、万が一、よりは随分と確率が高いんじゃないか? と動揺する俺をよそに、ホークスはあっさりと同意した。
「まあ、その時はその時で」
病院よりも、自宅のベッの上でその時を待ちたいと、そう希望したのはホークス本人だった。
「病院が嫌いなんだよ。死ぬとしても病院のベッドの上は絶対にイヤだ。俺が公安に引き取られて最初に連れてかれたの、どこだったか分かる? 正解は歯医者。歯磨きなんてろくにしてなかったから虫歯だらけでねー。で、治療は痛いし怖いし。あのせいで歯医者も大人も嫌いになった」
一人で簡単に済ませた味気ない夕食の後、歯を磨きながら、歯医者を想像するホークスのうんざりとした顔を思い出していた。洗面台に目をやると、この数日使われていないもう一本の歯ブラシが立っている。
ホークスには、人の隣で歯を磨きたがる謎の習性がある。「嘴の中に歯があるのが面白いから」という、冗談のような理由も過去に何度か聞かされている。その習性が特に気に障るのは朝の支度の時だ。寝起きの重たい頭に、明るく陽気な男の声は目覚まし時計より響く。それでも、本心から苛ついている俺を見て、一層嬉しそうに笑うのだ。たとえ、前の日にどんなに不機嫌なまま、会話もせずに眠りに着いたとしても、朝のその態度は変わらなかった。
疑義を挟む間もない即断を「悪いね」の一言で済ませようとしたホークスに、病院に居る間はなんとか堪えていた苛立ちを、帰宅してすぐにぶつけてしまった。
三脚あるダイニングの椅子。その内の一脚が折れて使い物にならなくなっているのは、その時の喧嘩が原因だ。
個性が有る者と無い者になり、力の差は圧倒的なはずだが、彼が俺の個性の暴走に怯えたことはない。光という明確な弱点が分かっているからなのか、単なる年齢の差による余裕か、憤るのは大抵の場合自分ひとりだ。
弱点は分かっているはずなのに、電気も点けず、暗闇の中で抱き締められる。感情の昂ぶりが自然に収まるのを待つ間、落ち着いた声色で「ごめん」とだけ繰り返す。言の葉をこれでもかと茂らせて心を隠すのが常なのに、そんな時ばかりは余計なことを言わない。
氷は、固めるよりも溶かす方に時間がかかる。そう言っていたのは、一瞬で氷を生み出せる個性を有する轟だ。
寄り添い合い共に暮らし始めてからの今までは、まるで固まった氷を溶かすような日々だった。
幸福で穏やかで、何にも急かされず、急かさない日常。
一歩一歩踏みしめるように過ごす中、時折、何か忘れた振りをしている気がして呼吸が苦しくなる瞬間がある。
たとえば、群訝山荘での自分の到着がもう少し早くて、止めを刺される前のトゥワイスを「殺せ」と、彼が自分に命じていたら? 正しいことだと、咄嗟に判断し従うことができたか? 過ぎたことを考えてもしようがない。だが、起こってしまったことの判断を、未だに下せないままここまで来てしまったと、そう思う時があるのだ。
俺は、この人が正しくあれているのかを見定めるために傍にいるのか?
地面に縛り付けられることを、罰として受け入れているのだと。そう感じているとしたら、羽根の再生に躊躇うのは、心底では信じ切れていないからか?
個性再生の処置を実行するにあたって、同意書にサインをしたのは自分だった。
かつて公安に消された戸籍を、素性が暴かれAFOを元凶とする事態が落ちついた後も、ホークスは復活させていない。
鷹見啓悟にとっての家族は両親二人。そして、ホークスにとっての家族は、俺だけだ。
ペンを持つ手が震えた。紙にペン先をつける直前になって、意志に反して筋肉が硬直し動かせなくなった。
丁度そのタイミングで、俺の怯えを見透かしているかのように、そっと肩に手が置かれた。重圧や責任に怯えたことなどないだろう強かな男の手の平に後押しされて感じたのは、喜びよりも悔しさだった。
眠れないまま夜が明け、カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光が部屋を徐々に明るくしていく。はじめてキスをしたベッドの上で、未だサナギは沈黙を保っていた。
膜の動きに合わせて呼吸をしながら、ジリ、と腹の底で濁った感情が焦げつくのを感じる。俺は、壁際の椅子を蹴って立ち上がると、ベッドまで歩み寄り、薄明かりを反射して白く輝く塊を見下ろした。
腹底で燻り、黒い煙をあげる焦燥感。
このまま目覚めることがないのなら、いっそこの手で殺してしまいたい。
覚えのある衝動だ。同じ感情を過去に一度だけ抱いた。
かつての大戦で、二拠点同時奇襲が不発に終わったあの時。荼毘に背中を焼き尽くされたホークスが意識を取り戻すには多少の時間がかかった。
集中治療室での治療を終えたその日の夜中。病室に忍び込み、呼吸器をつけてベッドに横たわる──仰向けに横たわる──その姿を見下ろしながら思ったのだ。
いっそ、このまま目覚めないのなら──
当時の自分が抱くにしては不相応な重たい感情は、恐らく、直前に間近で目撃した強烈な執着の炎に煽られたせいだ。
一瞬頭をよぎり、すぐに消えていったはずのあの感情を、今になって再び感じている。
あの時よりも、より明瞭に、強く、切実に。
神に奪われるくらいなら、いっそこのまま──
死の匂いに敏感なのだと、そう伝えたのは、ある人達の結婚式に二人で参列した時だった。思い返せば、葬式じゃないのが不思議だ。だが、確かに感じたのだ。死が二人を分かつまで。そう誓う恋人たちの姿から、逃れられない死の気配を。
その吐露に対してホークスは、開放的な屋外の式場に似合う、あっけらかんとした声で返してきた。
「俺は逆だ。光る蛍を見て、一週間で死んで消えるって分かってても、その瞬間に光ってることにしか意識がいかない。……でももしかすると、俺は、鈍感だからここまで生き残れたのかもしれないな」
昂り沸き出た殺意を抑えるためにリビングに移動してみたものの、ソファに座ってもかえって落ち着かず、立ったまま壁のカレンダーを見ていた。
この三日間の他にも、それぞれの予定が所々に書き込まれている。どちらも悪筆で、しかも走り書きだから、本人でないと読めないものも多い。それでも、月末近くの日付にホークスが付けた大きな赤い花丸の意味だけはすぐに分かって、思わず笑みがこぼれる。それと同時に、あと約二ヶ月と少しで年が明けることに思い至った。
出会ってからもう何年が経つのか──指折り数えるまでもなく、翼がある姿より、無い姿を見ている期間の方が長い。二人の距離が最も近づいた時も、組み敷いたその背は人の子のものだった。
それでも、この先どれだけ思い出が増えたとしても、きっと自分が死ぬ直前に目蓋の裏に映す姿は、出会った時のあの彼なのだろう。
遠く遠くへと、手の届かない場所を追いつけないスピードで駆けていく。夜も昼も関係なく、いつでも空は彼のためにあった。
「君の罪悪感のためじゃない。俺は、俺が飛びたいから羽根が欲しいんだ」
内在する矛盾した感情を、突き放して楽にしてくれようという言葉。言い合いの最中に投げ掛けられたあれは、優しさのはずがひどく痛かった。楽になりたくないのだと、そう思うのさえも、エゴだろうか?
「フミカゲ、コレなんの音だ?」
不自然な物音に黒影が先に気がついた。
寝室の方から、パキパキと、破裂音のような、家が軋んでいるような不穏な音が響いてきた。慌てて部屋に戻ると、その音はより明瞭になった。
春の日差しで氷が融けていく音、卵より大きくなった雛が殻を破る音、不死鳥の炎で薪が燃えて木が割れる音。
生命の鼓動に、自分よりも黒影が怯えているのが伝わってくる。そうだ。これは、超新星が生れ出づる時に放たれる、圧倒的な光の音だ。
破れた膜の隙間から、赤が溢れている。朝焼けよりも眩しい赤は、出会いの淡い思い出を打ち砕くほどに鮮やかな色だった。
空気を振るわせて伝わる振動に、胸が震える。右往左往していた感情が、一方向へと集中していく。今になって分かる。何ということもない。ただただ、寂しかったのだろう。
そうだった。「次の夏には、一緒に蛍を見に行こう」と。希望が目に見えはじめてようやく、三日前、眠りに着く直前のホークスから最後に言われた言葉を思い出した。
間もなくの誕生日も、来年の夏も、その先の未来も、すべてが約束されている。それでも、束の間の不在すら寂しくて、何度あなたのことを考えたか、目覚めたらすぐにでも伝えよう。そう決意し拳を握りしめ、俺は今まさに来たらんとする羽化を見守った。
おわり
2025年2月9日