しろいゆめ
崖から足を滑らせたような、死の覚悟を伴う浮遊感と共に目が覚めた。
目覚めた勢いのまま上体を跳ね起こし、周囲を見回す。真っ暗な部屋、他人の気配はない。
寝汗で背中に張り付いたTシャツが気持ち悪い。脱ごう。
「っ、ぁ……」
掠れ声すらも出ないくらい、喉が渇き切っている。
重い体を壁に這わせて暗闇を手探りで歩き、ユニットバスまでたどり着く。オレンジ色の照明が眩しいホテルの洗面台。飲料用ではないだろうが構うものか。
両手で掬った水を獣のように飲む勢いのまま、ついでに顔を洗う。溺れそうなくらい水をかけられた顔の皮膚が熱を奪われ張り詰めていく。
びしょびしょになった顔を上げると、口の両端を裂けんばかりに吊り上げ笑う火傷まみれの男と目が合った。
「なあ、ホークス。どうだ? トモダチを殺して、それでものうのうとヒーロー面してる気分ってのは」
鏡の向こうから、愉悦に浸った声色で話しかけてくる荼毘。
「消えろよ」
「なんだよ。仲良くしようぜ。親に捨てられた同士だろ?」
「俺は、捨てられてない。……捨てたんだ」
「捨てたつもり、だよ。そう思わなきゃやってられないよな。今だってそうだ。かわいそうに、はじめてだったんだろ?人を殺すのは」
黙れ、と叫んだ声が鏡に反響して自らの耳に刺さる。
分かっている。いくら荼毘が俺の情報を嗅ぎまわっていたとはいえ、公安でやってきたことの詳細全てを知れるはずがない。
なぜ、こいつが知っている?
それはもちろん、目の前のこれが、俺が勝手に生み出した幻だからだ。
自らの手で自らを糾弾しようという俺の頭が捻りだした幻影。
目を合わせた瞬間から分かっているのに、鏡の中の荼毘との会話を止められない。
「はじめてだから……なんだってんだよ」
「はじめては、なんだってお祝いするだろ?はじめてのあんよ、はじめての自転車、はじめての個性発動、そしてはじめての殺しだ。しかも相手はトモダチだってんだから」
「ちがう……」
「そうかぁ?少なくとも、あいつは心からお前のことそう思ってただろうぜ。なあ、認めろよ。はじめての経験だったろ?役に立つかどうかなんて打算もなく、ただただ共感から手を差し伸べられたのは。それを、お前は――」
一瞬の忘我から我にかえった時には、拳骨が血に濡れていた。
飛び散ったガラス片が、頬の柔らかい肉に小さな傷をつけていて、なぜか血だらけの右手よりもそっちの方が痛みを感じた。
その場に座り込むと、パリパリと音をたてながら破片がさらに細かく砕ける。
やめろ、蹲るな。蹲れば、それだけで情動に意識を持っていかれる。
そう理解はしていても、立ち続ける気力はなかった。
蹲り、両手で頭を抱える。血が塗りつけられた髪が手に引っかかる。
「……ちがう、本当に、生かすつもりだった」
どうしようもない、愚にもつかない弱音。
自分の吐いた言葉を聞いて、胃が丸ごと出てきそうなくらいの強烈な吐き気を催した。
「また、つもり、か。にしちゃあ鬼気迫ってたぜ。なあ、啓悟」
床に落ちた大きな破片の中から、荼毘がそう嘲っていた。
さっき目覚めると同時に忘れたはずだったイヤな夢が、ふいに蘇る。
荒廃した土地で、空に地に、砕け散っていく自陣営のヒーロー達。
俺の目の前で鳥頭の彼が地面を這い、何かから逃れようとこちらに向かってくる。手負いだ。でも、まだ助かる余地はある。
こっちへ――
必死で伸ばした手の先でその背中が敵の刃に刺し貫かれると、視界が真っ白に染まった。
荼毘が使った記録映像の中で、分倍河原に取り付けられていたカメラが最後に映していたのは、本来のあどけなさも露わに呆然とする少女の顔だった。
今、彼女の心が憎悪と復讐心に滾っているのであればそれが自然だ。
――たとえば、殺されたのが君だったとしたら。
殺した相手を殺すために力を振るわない自信が俺にはない。
君が殺されても仕方なかった理由を100並べては、1の怒りですべてを覆すだろう。
少女への共感がある限り、俺の正義は欺瞞なのだと。
そう突き付けられるのが嫌だから、君の顔を見たくないんだよ。