たいせつなものはだきしめておかないとなくしちゃうから
高々200m程度の高度でも、地表と比べれば気温は低い。さらに吹き付ける福岡の海風を無防備に受けていたこともあり、数十分の夜間飛行から地上に戻ってきた時には、空気が幾分生温かく感じられた。
一人だけで飛ぶ時よりもかなり慎重に、障害物のない太い歩道を狙って地上に降り立ったホークスは、抱えていた常闇が地面に足を着いたのを確認してから、彼の腰に回していた両腕の力を緩めた。
「泊まってるとこ、ここであってるよね?」
「ああ。わざわざ送ってもらい、かたじけない」
「いやー、もうちょっとで青少年保護条例にひっかかっちゃうような時間まで連れ回しちゃったしね」
律儀にお礼を述べる常闇に、ホークスが両手をぷらぷらと振りながら言葉を返した。
「でも悪いね、ウィークリーマンションで。もっと大手の事務所だったら、宿泊設備もちゃんと整えてるみたいなんだけど。なんせ、うちはインターン生とるのも常闇くんがはじめてだからさ。ご飯とかどうしてるの?」
「折角の機会だから、自炊も試みている。それと、母親が色々と簡単に食べられるものを持たせてくれたので」
心配ご無用、とどこか得意げな顔で説明してくれる常闇に、ホークスも感心した表情で頷く。
「なら良かった。他に、生活で困ったことあったらなんでも言ってね」
おやすみなさい、と互いに声を掛け合った後、常闇がマンションのエントランスから中へと入っていくまでを見届けたホークスは、さて、と声に出して呟いてから、両足のブーツで思い切り良く地面を蹴った。
自分の体だけで飛び上がると、さっきまで抱えていた重さが無い分、いつも以上に身軽に感じられた。
「……誰か抱えて飛ぶのなんて、久々やったな」
もちろん、ヒーロー活動の最中に人命救助のために人を抱きかかえることはある。ただ、それは往々にして一時的であったし、ほとんどの場合は剛翼を駆使し、自分の身は極力フリーになるよう意識して動いている。
抱きかかえて飛ぶと、両手が使えないせいで不安もあった。ただ、それ以上に他人の体温に安心していた。彼を手放した今、胸元を通っていく風が必要以上に冷たく感じられてしまう。
なにかを両腕でしっかりと抱きしめると、安心する。その癖を自覚すれば、もうずっと前に手放したはずの小さな人形のことが、否が応でも思い出される。
「ほんっと……成長しとらんね、俺は」
彼は、まだほんの子どもだ。母親に愛されている、未熟な雛鳥。誰かを守る以前の、護られるべき存在。常闇との短い会話を反芻することで、彼の存在がなんなのかを再確認する。
「俺とはちがう、なんもかんも」
二人で飛んでいた時よりも、風が一層強くなっていた。低く沈んだ声での独り言は風音に掻き消され、呟いた本人にも聞こえなかった。
母親が煩い子どもを宥めるために買った安い人形が、父親はひどく気に食わないようだった。
買ってもらったとは決して言わず、できるだけ目に触れないように気をつけて扱っていても、臆病で目敏い男はすぐにその存在に気がついた。ヒーローや警察に見つかることを何よりも恐れて生きている以上、たかだか人形とはいえ、目に入れるのさえもいやがるのは、当然と言えば当然の反応だ。それに、俺が何かに喜んでいるのを見るのも嫌だったのだろう。
奪われそうになると逃げ回った。
捨てられたら拾った。
起きている時も寝ている時も、肌身離さず持ち歩いた。
抱きしめると安心した、そこにあることを実感できたから。
これだけは絶対に失くしたくない。そう思ったから、ずっと抱きしめていた。
決戦を翌日に控えた夜、常闇が仮説要塞トロイアに用意された自室で装備の点検をしていると、突然、窓の方からコツコツと固い音が聞こえてきた。
瞬時に身構えた常闇に合わせてダークシャドウもその背後に沸き上がったが、力を放出させようとするのを、常闇自身が留めた。
「待て、あれは…」
常闇の目線の先、窓を叩いているのは小さな赤い羽根だった。
「やっ、久しぶり」
常闇が内側から窓を開くとすぐに、ホークスが地面から2階の常闇の部屋まで軽々と飛び上がってきた。
「事前に連絡してくれればいいものを。心の臓が飛び出るかと」
「いやー、来るつもりじゃなかったんだけど、ちょっとだけ時間あったから。ってか、部屋ん中暗くない? あ、ダークシャドウのためか」
「いえ、これはただの趣味で……」
ホークスは体勢を直して窓の桟に腰かけると、ゴーグルを額まで持ち上げ、照明をギリギリまで抑えた薄暗い室内を不思議そうに見回していた。訂正しようとした常闇だったが、ホークスの背中で広がる翼に改めて目が留まったところで、一旦言葉を止め、まったく別の話へと切り替えることにした。
「剛翼、元に戻ったんだな」
「あー、うん。正確には、多少ね。これ、実はほとんど義羽根だから。雄英の学生の子が作ってくれたんだけど、ぱっと見分かんなくない? 自分の意思じゃ動かせないとはいえ、ブラフには十分なるよね」
「ああ、立派だ」
「聞いてると思うけど、明日の配置一緒でしょ。この羽根が偽物って味方側にもあんま言ってないから、内緒にしといてね」
相変わらずの立て板に水で途切れなく話し続けるホークスに対して、常闇は相槌を打ちながらも、妙な違和感を覚えていた。
群訝山荘で荼毘から逃走して以来、意識のあるホークスと顔を合わせるのは常闇にとって今日が初めてだった。
敵側に動きを悟られないために、戦力の大きな一角である雄英高校の生徒への情報の伝達は、オールマイトと塚内が一手に引き受けていた。それゆえ、ホークスたち作戦参謀からの情報は得ていても、本人の顔を見たり声を聞いたりする機会はなかった。
しばらくの間連絡を無視されていたことも、事情が分かってからは納得していた。心身ともに無事であることも十分に伝わり聞こえてきていたので、心配もしてはいなかった。
ただ、常闇が不自然に感じるくらい、今のホークスの態度は自然すぎた。
群訝で起こった一連のできごとも、その後の記者会見での告白も、まるで何もなかったかのように。
「ホークス」
最初に口を開いてから一向に閉じようとしないまま続いていたホークスの話を無理矢理遮って、常闇が名前を呼ぶ。
「今日来てくれた理由はなんなんだ。やはり明日のことか?」
常闇の冷静な声色に、何かを誤魔化そうとしていた態度を見透かされたホークスは、恥ずかしそうに首の裏を掻きながらソワソワと視線をさまよわせ始めた。
「…あんね、実は常闇くんにお願いがあって」
お願い、と言われて、常闇は反射的に目を瞬かせた。ホークスから願い事をされたことなどないため、驚くと同時に、かすかな優越感もあった。なんだろう、と考えを巡らせるより先に、ホークスがお願いの内容までを続けて口にする。
「その……ハグしてもいい?」
「はぐ?」
「あっ、はは、通じてない? うーん、こう、ぎゅーっと、なんていうかな。うわ、なんか恥ずかしいな、これ」
柄にもなく照れた様子のホークスが、バタバタと動かしていた手で自分の肩を抱きしめて見せると、常闇も合点がいったというように力強く頷いた。
「抱擁か。もちろん」
そう言うや否やその場で両腕を大きく開いた常闇に、お願いをした側のホークスがたじろぐ。
「こういうの、ちゃんと事前に聞かないとセクハラになっちゃうからさ」
恥ずかしさを誤魔化したいのか、早口でそう口走りながら、おずおずと常闇の方へと腕を伸ばし、自分のいる窓際までその体を引き寄せた。
体格差がある分、常闇の方がホークスの腕の中にすっぽりと収まるような体勢となり、ホークスの上着の裾がふわふわと常闇の嘴を撫でていた。それが少しむず痒かったが、抱きしめられている感覚自体は悪くなかった。
両親や友人と抱きしめ合うことで親愛を示すコミュニケーションには、常闇にも馴染みがあった。同性同士であれば、なおのこと抵抗はない。
今それを求めるホークスの意図は分からないものの、明日の決戦を前に無意識の内に昂っていた気持ちが少し落ち着くような、それでいて腹底からハツハツと胆力がみなぎってくるような、不思議な感覚に身を任せた。
それにしても、ホークスの腕の力は強かった。気づけば親愛の抱擁というよりも、常闇の背骨を砕こうとしているのではないかと思うくらいに力強く抱きしめられ、なおかつ、その力は次第に増していっている。
「ホークス、少々、苦しい……」
さすがに耐えかねた常闇がそう訴えると、すぐに腕の力は緩まった。ピッタリと埋まっていた二人の間に隙間ができると、ホークスの申し訳なさそうな顔が常闇の視界に入って来た。
「ごめんごめん」
「こちらこそ、鍛え方が足らず慚愧に堪えない。次までには、より屈強な肉体を用意しておく」
「ははっ、向上心すご。てか次ある想定なんだ…」
ホークスは苦笑いを返しつつ、引き続き照れた様子で、そそくさと体を後退させていった。
「じゃあ、また明日」
ゴーグルをかけ直し、身をひるがえして窓の桟に足をかけたホークスを、常闇が慌てて引き留める。上着の袖を掴まれたホークスは、動きを止め、顔だけで常闇の方を振り返った。
「ホークス…俺は、あなたのことを信じている。たとえ、世間がなんと言おうと」
それを聞いたホークスの目が、驚きに見開かれた後、すぐに細まる。逆光とゴーグルのせいで、一体どんな表情をしているのか、常闇からでは判断が難しかった。
「……ありがと」
普段は大きく開くはずのホークスの口が、ほとんど唇を動かさずに感謝の言葉を呟く。それからすぐに、じゃあね、と再度の別れの言葉と共に飛び立ったホークスを、常闇は窓際に立ったまま目で追った。満月に近い月齢で、かつ晴天ということもあり、しばらく先で方向を転換して視界に入らなくなるまで、その赤く大きな翼はくっきりと目に見えていた。
明日の戦いが終われば、また二人で夜空を自由に飛べる日も来るだろうか。そう想像すると、初めて空を飛んだ日の興奮と幸福感が鮮やかに思い起こされて、思わず笑みがこぼれていた。