あの犬
東京都心に根を張る老舗ホテルの最上階。背後に地価数百億の夜景を枠どる大きな窓を構えたカウンターバーは、ホテルの大きさに不釣り合いなこぢんまりとしたつくりで、2つある扉のうちひとつを挟んだ先にある華やかなレストランの補色のようにひっそりと存在していた。
「じゃあ~、ベストジーニストの5位降格を祝って。おめでとうございます」
カウンターの端に並んで座る二人の間で、チン、と上品に打ち付けられたグラスが音をたてるのと同時に、ジーニストはデニム素材の立ち襟の下で微笑んだ。
「降格を祝われるとはな。皮肉か?」
「まさか! あなたのことだから、悔しがるよりも若い世代の台頭を喜んでるんじゃないかって思ったんスけど。違いますか?」
「まあ、後進が育つのに越したことはない。むしろ長く居座りすぎたくらいだ。とはいえ、評価基準の変更に助けられているだけで、実際の活躍はもう現役並みとは言えないよ」
「なーに思っても無いこと言ってんスか。引退する気なんてサラサラないでしょ」
ワハハ、と笑い飛ばしカクテルを生ビールの勢いでグビグビと飲み下すホークスを横目に、ジーニストが眉をひそめる。
「どうだろうな。爆豪がランキングで1位になった暁には引退しても構わないが」
「それ、する気ないってことでしょ。それとも新手のゲン担ぎ? ……で、今日俺が呼び出された理由について聞いても?」
「理由? 理由が無いとダメか?」
「いーえ光栄です。計画のために死んでくれとか言われなくて安心しました。でも、もしかするとおめでたい報告とかかな~って予想つけてたんですけど……」
「生憎、浮いた話はないよ」
「残念! ま、結婚の報告するにしてもわざわざ俺個人にする必要もないか」
「耳聡い男が良く言うな。こちらが報告する時にはどうせもう知ってるだろ」
「知ってても、知らないふりして驚いて、おめでとうって言いますよ。大人なんでね」
「そういうのは、大人とは言わない」
「じゃぁ俺、まだ大人じゃないのかも! しかし、年って不思議なもんですね~。俺も最近年取ったなって思うことあるけど、まだジーニストさんが死んだ時の年齢にも追いついてないんだから」
「訂正を求める。殺された、だ」
「はいはい。俺が殺しました殺しました。ったく、根に持つんだから。しかし、当然あのナンバー2、ナンバー3の時の記憶が一番印象深いスけど、俺たちが初めて会った時からって思ったらもう20年以上ですか? 怖いなー時の流れ」
「……初めて会った時か――」
「おっと! ここで回想に入らないでくださいね。長くなるんで」
「そうかい。こちらとしても、無理に思い出したい記憶でもない」
「そういや、今までに聞いたことなかったな。ジーニストさんから見て、俺の第一印象ってどんなでした?」
「第一印象か……強いていえば、天使だな」
眉ひとつ動かさずに口にしたジーニストの答えに、ホークスが液体を含んでいた口を慌てて押さえる。ごくりと慎重に中身を飲み込んでから、大きく口を開いた。
「だっ、ははは! 真面目な顔でなんか言ってる!」
「ルーベンスだ。どうせ絵画に興味はないだろうが、フランダースの犬は知ってるだろ? 若い頃モデルの仕事でヨーロッパに渡った時に、本物のルーベンスを見る機会があった。そこに描かれていた赤いローブを着ていた天使の姿。空を飛んで市民を助ける姿をはじめて見た時に、咄嗟にあれを思い出したんだ」
「あの~御高説の最中に申し訳ないんですが。おれ、知りません」
「何をだ?」
「だから、フランダースの犬。どんな犬なんスか」
「……」
「……」
「え、どんな犬ですか?」
「…………お前みたいな犬だよ」
「え~? 鳥なのに? そもそも俺を見て天使なんて、結構イタいですよ」
「恥を忍んで嘘をつかなかった自らを褒めるよ、大人だからな」
琥珀色のウィスキーが入ったロックグラスを揺らすと、カラン、と氷が音をたてる。照れ隠しの仕草を真似して、ホークスも背丈の長いグラスを揺らす。すでに液体は飲み干されたグラスの中で、氷は景気良く音を響かせた。
「あ、おかわりはいいです。俺仕事残ってるしそろそろ――」
「そろそろ、か。そうだな、そろそろだ」
ホークスが早々の退席を申し出た瞬間、バンッという大きな音をたて、レストランへとつながるドアが開いた。反射的にそちらに顔を向けたホークスは、ドアの向こうから現れた人達の姿と、その後ろに広がる光景に目を見開いた。
「なっ」
パーティの準備の整った明るい大広間の中、ひしめき合う大勢の人。防音扉が開くと、途端に人々が歓談するざわめきもバーに流れ込んでくる。レストランの奥の方の壁にかかった「ホークス」の文字列を含んだ垂れ幕が目に入り、自らが嵌められたことに気がついたホークスは頭を抱えた。かつて共闘したプロヒーロー、元ヒーローの卵でいまや立派に独り立ちした面々、公安委員会職員、ヒーロー時代のサイドキック……およそホークスとの縁が少なからずある人物は、可能な限りすべて集められているようだった。
「まさか、ジーニストさんも仕掛け人ですか?! 用もないのに呼び出すなんておかしいと思ったら――」
「頼まれただけだ。ヒーローデビュー15周年のお祝いだとよ。おめでとう」
おめでとう、に合わせてカウンターの上に置かれたままになっていたホークスの空のグラスに自分のものを打ちつける。その仕草に、ホークスは余計落ち着かない様子で後頭部の髪をグシャグシャとかき回した。
「もうヒーローじゃないですって!」
「さて。会長になるとは聞いたが、ヒーローを引退するとはついぞ聞かされていないが?」
「あ~も~屁理屈こねんでくださいよ」
文句を言いながら観念したホークスがレストラン側からなだれ込んできた人に揉まれながら移動する一方で、ジーニストも席を立ち、反対側にある出入り口へと向かっていた。
「あれ、ジーニストさん帰るんですか?」
それに気が付いたホークスの呼びかけに、ジーニストが上半身だけで振り返り、目線を返す。
「今回はお膳立てが私の仕事だ。賑やかなのも嫌いじゃないが今日はお暇させてもらうよ」
「じゃー、また今度。え~と、なんか……そうだ! エンデヴァーさんの還暦のお祝いで会いましょう。あの人なんやかんや言って拒否ると思うんで、そん時もうまいことお膳立てしてくださいよっ」
ホークスが、右腕をぶんぶんと振りながら、入り口に向かって颯爽と歩いていくジーニストに次の約束を投げかける。お前はエンデヴァーをいくつだと思ってるんだ。ジーニストはそう言い返したくなるのを襟の下に仕舞い込むと、ウィンクひとつを残してその場を後にした。