あかいはな
辛うじて屋根があるだけの家。その屋根の下では、朝も夜も、一日中テレビが流れていた。
狭い部屋の中にいる以上、その音から逃げる術はない。背中に耳を10も100もつけている自分にとってはなおさら、朝から晩まで休むことなく雑多な音を流し続ける小さな箱は、直接的な暴力以上の苦痛をもたらすことがあった。
“見え過ぎてしまう”彼女は、ひたすらに雑多な情報を求め続けていた。CMのたびに繰り返される頻繁なザッピング。セリフや効果音の断片が無造作に繋ぎ合わされた音に、不快さが一段と増す。床に散乱したゴミを片付ける素振りをしながら、背中の翼をできるだけ縮こませる。アンテナと同じで、大きく広げると感知能力も上がり縮めれば下がる気がする、と気がついたのは寒さの厳しい冬になった頃、かじかむ四肢を思わず縮めた時だった。
『―――♪』
テレビから子供たちが合唱する声が聞こえてくると、チャンネルを変え続けていた手が止まった。
翼が欲しい、翼をくださいと、誰にともなく乞う歌詞。
どこかで耳にしたことのある、眠気を誘うテンポの歌。その歌が、二人きりの部屋に響く。天使の声みたいだと思った。それくらい、自分たちのいる場所には不釣り合いな明るく透き通った歌声だった。
「……翼なんかあったって、なんもいいことなんかなか」
自分が言いかけた言葉を、先に発したのは母親の方だった。
「せめて、赤じゃなくて白だったらよかったっちゃろうか」
こちらを見ることもせずに、テレビを凝視したまま呟く。
そのぼんやりと気の抜けた声はどこまでも、どこまでも他人事だった。
ホークス、と呼ぶ声で目が覚めた。
目を開けると、今だ見慣れぬ黒い鳥人の顔の向こうに見慣れた事務所の白い天井が見えた。
「取材の開始予定時刻まで間もなくだそうだ。準備を願いたいと」
「あー……おれ、何分ねてた?」
ソファの上でのろのろと体を起こす。うっかり仰向けに寝てしまったせいで、背中がしっかり痺れていた。
「10分にも満たない」
「そうか。事務所内でも伝書鳩させちゃって、悪いね」
「……別段、伝書鳩と思ったことはない」
相変わらずのクールな10代。冗談は素っ気なく受け流された。
嫌な夢を見ていた余韻で頭が重い。それでも、どんな夢だったのか、内容はもうはっきりとは思い出せなかった。
重い頭が項垂れそうになるのを誤魔化すために、ブーツの紐を丁寧に結び直してから立ちあがる。
廊下を歩く俺のきっちりと一歩後ろをついてくる彼は、伝書鳩というよりは殻を破りたてのひよこだ。
職場体験の時は、なかなか懐に入れさせてもらえなくてむしろこちらが焦っていた。それが、2回目のインターンの時に気まぐれで軽いアドバイスをしてから一転、態度が変わった。
今のように信頼され切ってしまうと、正直少しうざったくもある。
だって、どう考えても自分は「師」なんて柄じゃない。
今世間を騒がせている敵連合の事件が落ち着けば、雄英生にも用はなくなるだろう。彼と個人的に会う必要もない。
この居心地の悪さから早く解消されたいと思っているせいか、彼といると体の先っぽの方がずっとむずむずと痒い。
他人を騙していることに後ろめたさを感じるのなんて、久々の感覚だった。
「――では、ホークスのお母さまはどんな方でしたか?」
アナウンサーの質問に対して、答えの前置きとしてまず笑顔を返す。口元を引きつらせるような下手は打たない。極々自然な“ホークスの笑顔”が、モニターに映る。
「優しい人でしたよ。料理が上手で、おかげ様でこーんな立派に育ちました」
もちろん、母が料理をしている記憶なんてものはほぼない。ガスも水道もろくに通っていないような家じゃ、料理をできる能力があったのかさえ判断がつかない。
一足早い母の日特集、と銘打たれたインタビューは進む。俺は用意していた嘘を淀みなく吐く。
勝手に良妻賢母に仕立て上げられている当の本人も、公安に宛がわれた豪奢な家の大きな液晶画面で、このインタビューを見ているかも知れない。
彼女と俺だけが、唯一真実を知っている。
それ以外のみんなを騙している。
健気で無垢なインターン生は、カメラレンズの死角からこちらに視線を向けている。
騙している。
世間だけじゃない。今のこの瞬間も俺の一挙手一投足に注目している、この彼を、騙している。
「カーネーション、好きじゃないので?」
取材終わり、俺の手元の一輪の花に目配せながら彼が言った。
「ん? どして?」
「……最初渡された時、受け取るのを嫌がっているように見えた」
まったく、よく見ている。図星をつかれて思わず閉口した俺の態度をどうとったのか、彼は申し訳なさそうに続けた。
「すまない。つまらぬ質問をしてしまった」
「いや、いいけど……」
少し考えてから、もういいか、と心が緩む感覚に襲われる。
気が抜けた、というのが正解か。
「実は……俺ね、赤が嫌いなの」
「赤?」
「さっきの質問。俺、赤色があんま好きじゃないから」
敵の血で染まった色だと揶揄されることもある。実のところ、いわゆる敵以外の血もそこには多分に含まれている。
俺だって、この羽の色が好きじゃない。
かといって、赤ならなんでも嫌ってわけでもない。
赤は赤でも、燃え盛る炎の色は好きだ。
地球ごと敵を焼き尽くす正義の劫火。一生好きだ。
あとは、宝石みたいにキラキラ輝く、真っ直ぐで濁りの無い瞳の色――
って、それ誰ん目のこといっとーと?
答えはすぐ目の前にあった。
「……常闇くん、君、目え赤いんだね」
特に意識はしていなかったはずだけど、自然と目に入っている内に脳に刷り込まれたんだろう。
赤い色を思い浮かべた時に、瞼の裏に鮮烈に浮かんだ深紅。
疑り深そうな闇を湛えていたあの目が、あの夜間飛行を境に一転して溢れんばかりの輝きに満ちた。
磨けば光る、宝石の原石。
磨かれる前に無理矢理カットされて歪んでしまった俺とは大違いだ。
「君の赤は、嫌いじゃない」
改めて、目の前の釣り目を覗き込む。こちらの品定めするような視線をものともしない、芯の強いまなこ。
嫌いになんて、なれないよな。うっとおしくはあるんだけどさ。
「だからこれ、常闇くんにあげる」
脈絡なく押し付けられたカーネーションを、彼は困惑しながらも両手で恭しく受け取った。
「あとさ、俺、さっきのインタビューで嘘ついちゃった」
「嘘?」
「そ。俺のオカアサンは、本当は料理なんて全然好きでも得意でもなくて……テレビが好きな人、だった」
正直、それでしか彼女を形容できない。
夢に見るまでもなく、思い出す記憶の中で彼女はいつもテレビを見ている。
画面を凝視する横顔、それか背中。彼女の目に、俺の瞳の色は映っていただろうか?彼女の記憶の中に、俺の瞳の色は残っているだろうか?翼の色じゃなくて。
「だから、師はメディアの取材を積極的に受けるのですか?」
「は?」
「お母さんに、今の自分の姿を、活躍をみてもらうために」
素直な人間というのはこうもこちらの思いも寄らない発想をするものか。
ははは、と腹の底から沸いてきた笑いが堪えられない。
馬鹿にした気持ちははなく、本当にただ、愉快だと感じたのだ。
「君、面白いこと言うねえ」
腹を抱えて笑う俺を常闇くんは不思議そうに見ていた。その真剣な顔が、また俺の笑いを誘う。
「そうだ、前から思ってたんだけどさ」
「なにか?」
「俺、師匠って柄じゃないから。もういっそ、俺ら友達にならない?」
赤い眼が驚きに見開かれて後頭部の羽毛が逆立つ。驚いた顔、これまたおかしい。
俺のはじめての友達は君がいい、って。
いつの間に、そんな風に思っていたんだろう。